おはしょり稽古
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ジャッキー・チェンと「中華一番」は好きですか? -ひげ太夫『南獣トウゲ』-

えーと、この芝居、あたしは苦手だった。


でも決して駄作じゃない。


他には無い独自性があって、初めて見るタイプの作品だった。



一言で表すなら『物語仕立ての組体操』だろうか、


屋台・国王の墓・果ては城まで役者の体で表現する。


三人ぐらいが縦につながって『突風』になって走り回ったり、


サーカス出身の人達で創作ダンスを作ってみました、って感じになっている。



演劇と言うよりダンスに近い作品だけど、物語も骨太。


話の内容は、


香の国という一国を舞台に「常々拳(じょうじょうけん)」で主人公達が戦い国を救う、


壮大な中国活劇。



高級スカーフや粉焼きが武器になるなど破天荒な展開で、


掃除のおばちゃんまでカンフーやっちゃうぜ、みたいな


ジャッキー・チェンっぽいノリで作られている。



格闘料理漫画の『中華一番』が好きな人なら、この芝居は絶対ハマる。


『少林サッカー』に爆笑してDVD買っちゃった人も必見。


そう、あの『少林サッカー』『少林卓球』をCG無しでやってるようなもんなのですよ。


中国の映画や漫画が好きだったら、『南獣トウゲ』のギャグも絶対好きになる。



ここまでえらいこと肯定的に書いてきたけど、


じゃあ何故あたしは苦手だったのか。


それは簡単な話で、


中国物の作品の世界観があたしに合わなかったからなのですね。



これでもかこれでもかと『ドドーン!』と登場する城、


全部が全部クライマックスっていうこてこてした造り、


徹底して造り込まれているだけに合わない人にはとっても辛い。



城を表現する組体操は壮大で


身体表現のすごさに感動するんだけど、


その城自体が話の中に三つか四つぐらい出てくるのね。『ドドーン!』って。



自慢じゃないが


映画界で名作と謳われた「さらば、わが愛~覇王別姫~」でさえ冗長に感じたあたしには、


この話は見せ場が続きすぎて退屈だった。



「合わないな」と感じた理由はもう一つある。


組体操は計算しつくされた段取りの美しさが魅力。


だから組体操と話の運びを同時にやると、


どうしても台詞にまで段取りが移ることになる。



その段取りになった台詞回しが個人的に好きじゃなかった。


日本の古典芸能には段取りゆえの様式美もあるけど、


その視点で見るには少し拙いように思う。



効果音とか状況説明を全部台詞でやっちゃってるところは思い切ってて好きだし、


ぜひ完成度を上げていってほしいもんだ。


あたしは好きじゃないんだけど、なぜか次回作のチラシを見ると心が動く。


また中国物かなあ。

原作のまんま再演してどうするんじゃい

俳優座

「サムワン」

@俳優座劇場


レバノンに来ていたアメリカ人とアイルランド人とイギリス人が、

拉致されて一つの地下牢で暮らす。

去年ぐらいに早稲田大学で書かれていそうな粗筋だが、

アイルランドの古典演劇なんだそうだ。


舞台は第二次大戦中。

と言っても戦時中という状況設定はさほど生かされていず、

話はむしろ


『極限状況にアメリカ人とアイルランド人とイギリス人が置かれるとどうなるか』


というシチュエーション・コメディに近い。

ぴんと来ない人は

『静岡県民と大阪府民と東京都民』に置き換えてみると分かり易いと思う。

要するに

基本的には同じ言葉を使いながらもそれぞれに出身地の訛りで喋り、

生活環境が異なっていて

アイルランド人とイギリス人(大阪府民と東京都民)は一般的に相容れないというイメージが強い。


日本と違うのは

アイルランド人が長い間イギリスの植民地同然だったことと、

イギリス人が自国の英語に対して

大変なプライドを持っているということだろうか。


何かにつけて諍いを起こす両者をアメリカ人のアダムが「いい加減にしろ!」と怒鳴りつけ、

一方でアダム自身は生命の危機に怯えている。

そして後半にアダムが殺されると、両者は徐々に励まし合うようになる。


役者の演技でもって状況の厳しさをそれなりに表現してはいたものの、

登場人物の描き方は画一的で

職業も医者・ジャーナリスト・教師と「近代社会の代表的職業」という印象が否めない。


確かにヨーロッパの百姓が大戦中にレバノンにやってくるとは考えにくいが、

「奴ら俺のケツに油を塗って死ぬまで犯すんだ!」

というアダムの発言を聞いて、

いくら石油大国だからって本当にそんなことしたのかと考えてしまった。


あたしの知識不足もあるんだろうが、なんだか

「名古屋人のオカマはローションの代わりに味噌を使う」って感じに聞こえませんか。

当時の欧米人や作者の偏見が、

台詞のはしばしに現れていたように思う。


要するに、レバノンを舞台にしつつも作者はイスラム社会なんか見ちゃいない。

描かれているのは自分の国のことと、

目と鼻の先にある因縁のライバルのこと。


アイルランド人のエドワードは

イギリス人に励まされてアダムの死を乗り越える。

ラストシーンでは


「あんたは俺が今まで出会った中で一番強い男だ」

なんてイギリス人を激励するんだけど、

言いながら1人で釈放される。

釈放される理由は、連合国のイギリスと違ってアイルランドは中立国だから。


地下牢の中に1人で取り残されるのがイギリス人である他、

「ユーモアの分からないイギリス人」を象徴するようなシーンもあり、

原作者の郷土愛を端々に感じた。


ホリプロと日本テレビがバックについているということで、

舞台装置はかなり充実。

人が乗れるほどの天井を備えた石牢を造り、

天井に空けられた穴からは頑丈な梯子の一端が覗いている。


ラストシーンでは

この梯子が勢い良く降りてくるという大仕掛け。

壁に鎖の影絵が映し出されるシーンがあったり、

かなり美術は凝っていた。


だけど暗転の単調さは引っかかる。

二時間十五分の芝居で暗転が五回以上、

しかも場つなぎの曲に変化なし。

暗転削ったら上演時間も短くなったんではないかとつい勘繰ってしまう。


総じて言うと、

「もうちょっと工夫せいや、演出」ってところでしょうか。

金をかけなくてもできることが

もっといっぱいあるぞ。


「サムワン」からは、もっと沢山の意味が引っ張り出せると思う。

拉致事件を連想する人も少なくないだろう。

イギリス人だアイルランド人だ言うのもいいけど、

作品の深みを役者の演技力だけに頼っていちゃいけないんでないの。


個人的には、

極限状況で一番強いのはどんな人間か、というドキュメンタリーとして楽しんだ。

殺したり逃がしたりしないで、

最後までやってみれば良かったのに。そっちの方が見たい。

食べやすい狂気

COLLOL

「性能のよい~シェイクスピア『オセロー』より」

作・演出:田口アヤコ

@王子小劇場


劇場の長い辺をいっぱいに使った長方形の舞台に、

白い毛の編み物が流れていた。


『オセロー』の舞台は、ベネチア(ベニス)なのらしい。

イタリアの都市ベネチアは「水の都」の異名をとるほど運河の多い街で、

今公演『性能のよい』の舞台も

ベネチアに流れる運河を思わせる形にしてあった。


両側に河川敷のように作られた客席から舞台を見下ろしていると、

客入れの音楽がやんで芝居が始まる。


原作の『オセロー』はもっと複雑な話なんだろうけど、

『性能のよい』でクローズアップされているのは、


「オセローを密かに憎んでいる部下、イアーゴーの画策にはまったオセローが、

部下キャッシオと妻の浮気を疑い、

嫉妬に憑かれたあげく妻のデズデモーナを殺してしまう」


という所だけだ、と言っていい。

これ以外の「オセロー」の粗筋は、語りなどによって極力削られている。

作・演出の田口アヤコさんは、

多分、イアーゴーとかキャッシオとかはどうでもよかったんだろう。


『性能のよい』でメインに据えられているのは、

「相思相愛の状態が壊れる不安」

「恋人を失う不安」

である。「怖いぐらいに幸せ」ってやつですね。


それをより強く表現するために、

『オセロー』の途中に

恋人たちを描いた短いシーンがいくつも挿入される。中でも


「しあわせ?」「しあわせ」「こわい?」「こわい」


と問いかけ合う男女のシーンは象徴的だ。

二人は寝転がって、手をつないでいる。幸せだけど、怖い。

「結婚=相手を殺せる」

という内容のセリフも出てきたりして、非常に一貫性があった。


会話から察するに近未来の日本が舞台で(なんと徴兵制度がある)、

そこはご都合主義な印象を受けた。

『オセロー』もヨーロッパの戦時中が舞台だから絡めたんだろうけど、

状況は現代日本なのに

徴兵制度があるのは、やっぱり少し無理やりだ。そうまでしなくても伝わると思う。


『性能のよい』では三人以上の登場人物が会話することが無い。

何人もの人物を役者が演じ分けながら、

いつも一対一で会話している。

ときには二人の役者が一人の人物の台詞を交互に言うこともある。


オセローがデズデモーナを殺す場面は

三組の二人芝居が舞台で同時に演じられていた。


それぞれの組が独自に芝居を作っているから、

あっという間にデズデモーナが死んでしまうところもあれば、

二人が乱闘になっているところもある。

同じセリフが連鎖的に聞こえるところがなかなか面白かった。


力量のある役者陣に台本を渡して自由に芝居をさせて、

それを再構成して作ったんだと思う。

使う題材を欲張りすぎている感も否めないけど、

構成や役者の使い方など、力が安定している芝居だと思った。



(※役者注釈・・・ひょっとこ乱舞の看板役者、伊東佐保さんが出演しています。

          役者のレベルも高かったけど、

          今公演では彼女が一番目立っていました。多分売れると思うから、応援しとこう。)

2005年の傑作 ―この劇団のこの芝居は個人的に合格―

2006年も始まって久しいですが、 

とりあえず2005年をシメておかないと示しがつきませんやね。


ブログはどんどん更新されていくから古い作品は後ろにいっちゃうけど、

こうやって振り返ることで

今年新作公演や再演をやる沢山の劇団が少しでも助かればいいなと思います。


というわけで、選びましょう

「2005年 個人的に合格だった作品」。


まず、Wonderlandの年末企画「振り返る わたしの2005」 に挙げたのは、


Uフィールド「森の奥へ~カフカ『審判』より~」

Afro13「Death Of a Samurai」

・ひょっとこ乱舞「旅がはてしない」(順不同、リンク先は観劇当時のレビュー)


の3本。


(「旅がはてしない」だけレビューが無い。

 ショック。

 書いた記憶だけ残ってる。更新に失敗したのね)


2005年は個人的に当たり外れの激しい年だったけど、

UフィールドとAfro13だけは

何が何でも三傑から外せなかった。

この二つの次回公演は絶対見に行く。ずええったい見に行く。


最後の一本は迷った。

「旅がはてしない」が素晴らしい公演だったことには変わりないけど、

Wonderlandに原稿を送った後で思い出したのが

「地球の片隅で~ライフ・レント編~」


「旅がはてしない」は

絶望を抱きながらも変化を信じて笑ってみせるっていう、

とっても青臭いけど元気の出る結末。


「地球の片隅で」は

笑いながらも嫌な確信がだんだん大きくなっていくっていう、

そして確信しているのに怖くて直視できない結末。


思いきりポップで鮮やかな虚構の世界を描いた「旅がはてしない」と

青年団系列のリアルさに笑いを盛り込んだ「地球の片隅で」。


書いている途中に思い出していたら、

Wonderlandの北嶋さんには「選べません」って連絡していたかもしれない。

優劣を比較できない典型的な例だと思う。

深く考えないほうがいいこともあるんですね。


他に傑作と冠したいのは、

鳳劇団「昭和元禄桃尻姉妹」 、SOMA組「SOMA THE BEST」、

「いいもの観させてもらいました」と満足して出たのが

劇団犯罪友の会「手の紙」bird´s-eye-view「untitled」 、机上風景「グランデリニア」、

KANIKAMAのパフォーマンス

「海神別荘」

手堅くまとまっている印象を受けたのは乞局の「雄日葵」


凶器攻撃だろ、と思ったのは

ゴキブリコンビナート やとくお組。

これも芝居の傾向は全然違うので、

一緒くたにするのは本当は失礼なのかもしれない。どっちに対してかは分からないけど。


ヒンドゥー五千回の「ハメツノニワ」

あまりの静かな雰囲気に途中で眠ってしまったけど、

これみよがしに神経質な感じをアピールしていなくてよかった。意欲作。


疲れたのでいいかげんリンクを張るのはやめにするけど、

「ニセS高原から」は

ポツドール編と三条会編が好きだった。

このとき見逃した五反田団を見るのは今年の課題。


自分で見たものすら網羅できていなくて申し訳ないんだけど、

だいたいこんなところです。

期待して読んでたけど触れられていなかった、ってがっかりした劇団関係者の皆さん、

触れなかった理由は


・筆者のスタミナが切れるタイミングが悪かった

(ちょっと今回は縁がなかった)


・あんた方んとこの作品に再度悪口を言う前に根負けした

(むしろ触れられなくて幸運だった)


のどちらかです。


どちらにしてもラッキー!ってことで、


無理やり昨年をシメておきましょう。

おくればせながら、

あけましておめでとうございます。


・マニアックな分野


・不定期更新


・特にアクセス数増加にも努めない管理人


という三重苦にも関わらず、


開設半年で3人の人が「おはしょり稽古」に読者登録してくれたことを

本当に嬉しく思っています。


いつも有り難うございます。



それから、コメントをくださった皆さんも本当に有り難う。


レビューにコメントがつくことなんて端から予想してなかったので感激しました。


劇団上田さん、


「極上の唄」見に行けなくて本当にごめんなさい。


掲示板が無いブログだし告知だらけになってしまうのも困るけど、


隙を狙ってまた次回公演をお知らせしてください。



今年もどうぞ宜しくお願いします。

純和風・怪異譚

乞局

「雄日葵(オマワリ)」

作・演出:下西啓正

@王子小劇場


「お巡りさん」と「雄日葵さん」を引っ掛けたのは

なかなかブラックだ。

作品のタイトルでもあるこの架空の花の花言葉は、「許せない奴がいる」。

人に向かって「オマワリさん」って言うのは


「『このバカ野郎!』っていうか『ファック!』っていうか、」


そんな意味に当たるんだそうである。



雄日葵が群生するのは、日本国内の古都。

(京都のような、しかし京都ではない)とわざわざチラシ等に明記されているのも無理はない、

この古都ではハーフやクォーターの人々を、

侮蔑を込めて「混じり」と呼んでいるのだ。アクセントは、「ま」ね。


それなりに歴史のある雰囲気の料亭で、女将さんが死んだ。

「寝たきりで可哀相だし」と雄日葵の種を食事に混ぜていた従業員2人が、

店の評判が落ちるのを恐れて

死体を荒縄で縛って川に吊るし「貴重な珍味だ」と部下たちには言っておく。


雄日葵の種が毒性であるということは直接的には言われないけど、

女将さんの死体を養分にして大量に繁殖した雄日葵

従業員や警察官の体に種を植え付けて育ち、

あたかも女将さんの復讐のように川から這い上がって料亭を覆いに来るというのが

作品の大きな流れになっている。


ここに絡んでくるのが人種差別の問題だ。

作品の舞台となるベトナム居酒屋には、「混じり」が男女一人ずつ働いている。

このうち男性従業員のチャイが、

警察官によって女将殺しの犯人に仕立て上げられるのだ。


晴れて釈放されたチャイの言葉少なな様子と

短い回想シーンが、

署に連行された後に何があったか端的に示していた。


ラストで雄日葵に体を乗っ取られていくのは、

優しく振舞いつつもチャイに無理を言っていた上司2人と、

チャイを連行した警察官である。

客席に背を向けたチャイの目の前で3人が苦しむシーンはとても象徴的だ。


これは、

チャイにとっての「許せない奴」らが

報復される作品でもあったんである。


いつもながら、不快な人々が巧みに描かれている。

対して、非現実的なホラーの部分は洗練されて、生理的な不快感はあまり感じない。

上手い具合にバランスがとれて、

完成度の高い純和風怪異譚になっていた。

女子大生・古典芸能と遭遇

伝統の現在 Next 2

「海神別荘 ~夢幻能形式による~ 」

原作:泉鏡花 脚色:森崎一博 演出:加納幸和(花組芝居)

@新宿紀伊国屋ホール

能・狂言・演劇のコラボという壮大なコンセプトの作品。


古典芸能には暗いので、終演後まで、こういう作品のジャンルがあるんだろうと思っていた。

でも考えてみると、

能のように仮面をつけて演じるのはヒロインにあたる役者だけだし、

近代文学が原作なので狂言にしては台詞も平明。(なかには全く近代演劇みたいな言い回しの所もある)


無知な観客の目に一つのジャンルの作品と映ったほどだから、

コンセプトにしていた「融合」は大成功したと言っていいだろう。

実際、

この作品を今年のベスト3に挙げていた劇評家もいたほどだ。


見る目が無いので男と女の区別が把握しきれず、

プログラムを見て「ああ、あれ女だったんだ」「別人だったんだ」と思ったこともあったが、

見ていて全く違和感は無かった。


プログラムの粗筋を読みながら舞台を思い出していると、


「老人はいつしか娘を失った父親に姿を買え、深い夢の中に沈んでいくようだ。」

という一節が冒頭の舞台の風景に重なって見える。

濃い緑の舞台と笛の音で、観客も一緒に海の中に沈んでいくような感覚。

そうか、

古典芸能って、プログラムを先に読んでおくもんなんだ。


子供の頃は

暗黙の了解によって成り立つ劇に抵抗があったけど、

実際に見て感じたのは、

人間の想像力と表現力の豊かさだった。


仮面に落ちる影が変わると、ヒロインの美女の表情が変わる。

しぐさ一つで男女が変わる。

「暗黙の了解」っていうのは決して勝手に決められたもんじゃないんだな、と実感した。


同じくアメブロの「女子大生カンゲキのススメ」管理人さんのツテで、

今回の観劇は実現した。

浅薄な知識ではまともに評価することができないけど、

深遠な古典の世界に触れることができて、とてもよかった。ありがとうございます。

中学校の大会だったら最優秀賞

SPIRAL MOON

「NahatMusik」

作:柄澤太郎 演出:秋葉正子

@ザムザ阿佐ヶ谷


う、う、う。 

だめだ、こんな優等生のいい子ちゃんな芝居はあたしには合わん。


クリスマス・イブの夜に、主人公の女の前に

『犬の幽霊』が仲間を連れて現れて、

昔に可愛がってくれたお礼に願いを叶えてあげる、というのが筋。


犬たちが就職してから二年間会わなかった娘を連れてきてくれて、

更には五年ぐらい前に離婚した昔の夫に会わせ、

「出世したはいいものの、会社の責任を負わされて明日発展途上国に左遷される」という夫に

主人公の女性が

「いいわ、海外でもどこへでも行ってやる!」

と告げて皆大喜び・・・・・・・・っておいっ。

決断までにそれなりの時間を注ぎ込んでいるところは評価できるけど、それ、本当に幸せかぁ?

「新規支社開拓」の名目で、

実際は「十年は帰ってこれないだろう」なんだぞ。


結婚観うんぬんに関しては考え方の違いも大いにあるけど、

生々しい現実の描写と

夢の世界のふわふわした部分が噛み合ってなくて、居心地が悪い。


心が荒んでいた野良犬が、主人公に可愛がられていた「トモ」に会ったときのことを話すシーンは

結構心に沁みた。

犬達が保健所で知り合ったっていう展開はありがちで

作り手が予想したようなショックは全くもって無かったけど、

「こいつ、泣くんだ。ケイちゃんに会いたい、会いたいって。」

っていうシーンは

油断してると泣かされると思う。


これ、保健所にいるときの犬たちの視点で作った方が面白いんじゃないかなぁ。

死後に精霊になるとか、そんなご都合主義な特例なしで。

劇場に不釣合いな大声なんか出さなくても面白い作品になったと思うよ。


一夜だけ人間にしてもらったという犬達の和風な衣装や、

『八匹の犬』っていう設定から、

「『南総里見八犬伝』に引っかけたのかも」と終演後に気づいた。

無知なので、

話の内容との絡みはでんでん分かんなかったんだけど。


前回見た「おんわたし」の方が断然好きだった。次回以降に期待。

リアリティーでクオリティーをキープ

机上風景

「グランデリニア」

作:高木登 演出:古川大輔

@王子小劇場


序盤にこんなシーンがあった。

宏樹が美加と違うテーブルに座って、舞台に置かれた二組のテーブル全部を占領してしまう形になる。

そこに三人組が新たに来るが、宏樹はどかない。しぶしぶ三人は、テーブルの一つに座る。

美加がたまりかねて宏樹と同じテーブルに移ると、

「じゃあこっちに座っちゃおー!」と、大声で言いながら宏樹が反対側のテーブルに移動する。


横に並べられた、二組の、白い四人がけの丸テーブル。

波の音が絶えず聞こえるホテルの下のスペースは、本来とても快適な場所なのに違いない。

利用者のことを考えて使いやすいように設置された物なのに、

このシーンの中では窮屈なものに見える。四人掛けですよ、五人じゃだめですよ、という制約が見える。


話の構造だけ見ると、ものすごく単純な作品だ。

最初に三組のカップルが出てくる。カップルの男は三人とも怒鳴る。相手の女は男に迷惑している。

そこに、「そんなにイヤなら殺してあげますよ」と一人の男がやってくる。


この、「殺してあげますよ」と言う人を人間じゃなくて死神とか悪魔に変えると、

中学校の演劇大会の定番ネタそのままになる。

創作と聞いて『死を司る者』を登場させる中学生の多いこと多いこと。一様に口調が礼儀正しいところまで、「グランデリニア」の殺人鬼と同じだ。


だから、決して奇抜な構成とかアイディアでは勝負していないのだ。

すごくありがちな設定を、人物描写の細かさと役者の演技力でプロの芝居に仕立てている。

描写力だけでもここまで面白くなるというのが、新鮮だった。


作品中に登場する男の登場人物は、みんな大人の皮をかぶった子供だ。

突然怒鳴るか、自分が王様でないとふて腐れる。

でも、そういう男から離れられない女も、他人の前で屁理屈をこねる女も不安定なところがある。

モラリストな印象を受ける女性もいたが、

話が進むにつれて「単にモラリストなだけ」なことが分かってくる。


最前列に座ると、目線が役者と同じだからリアルに怖い。

殺人を計画している男をモラリストの女性が糾弾するところなんか、空気がぷつっと切れそうな感じがする。

怒鳴るポイントをちょっとずらすだけで狂気が演出できるんだななんて思うのは、

今こうやって書いてるからだ。

見てるときはただ怖かった。やめとけよ、って舞台に割って入りたくなった。


みんな心に余裕が無いので、行き詰まってわけわかんないことを言ったりする。

だから舞台を囲む観客席からは、たびたび笑いも起こった。

まだこの作品を見て笑えるほどの人生経験を、私は積んでいない。

シチュエーション・コメディで充分いけるのにぃ

ブラジル

「おしっこのはなし」

作・演出:ブラジリィー・アン・山田

@新宿サンモールスタジオ


ギャグのセンスがずば抜けている劇団である。

コント芝居やコメディーをやる劇団は沢山あるけど、ブラジルの芝居を見ているときほどは笑えない。

前々回の「美しい人妻」に続いて二回目の観劇だが、

今回も結構笑ってしまった。


余命三ヶ月と宣告された美月と、

事故で恋人の記憶だけを失くしてしまった中川と、

逆に昔好きだった人のこと以外の記憶を失くしてしまった(新たに記憶することもできない)患者が、

病院に入院している。

見舞いに来る人達と、看護婦と医者が登場人物だ。


看護婦は完全にギャグ担当。

見舞いに来る人にも、明らかにギャグ狙いの登場人物と分かるような人がいる。


物語の終盤で美月は死に、

その後に膀胱炎で入院した美月の恋人が、美月の幻を見るところで話は終わる。

大笑いさせつつも最後はしんみりさせる、手堅いドラマ・・・かな?


見ているときはそれなりに納得させるだけのパワーを感じたけど、

結構放置された台詞が多い。

一番不思議なのは、

美月が本当に死ぬ前に、死んだふりをするシーンだ。

死んだと見せて起き上がった美月は、こう言う。


「あたしね、病気のふりしてたの。」


この台詞を言った直後に美月は本当に死ぬ。真意が永遠に分からない言葉を残して

・・・と言うと名シーンに聞こえるかもしれない。



でもさ。


この台詞、横で医者が聞いてるのね。


そんで、美月と医者を見てると、どうも医者は仮病と知ってて美月を入院させてたらしいのよ。


どーゆーこっちゃね、それ。

そこは本当に病院かね、先生。


この「ふりをしてた」という台詞は話の随所に出てくる。記憶喪失になってしまった中川が、

「みんな、本当は大事なこと以外は忘れちゃってるんだよ。」

「俺、記憶喪失の振りしてた。」                   と美月に言ったりしている。


意味深だ、とは思う。言わんとすることも分からなくはない。でも芝居の中で上手く機能しているようには見えない。

「おしっこのはなし」と言いながら、

おしっこの話が今ひとつ話の軸になってなかったことと関係あるのかもしれない。

チラシに書いてあった文章と、芝居の内容がかなり違ってたし。


死ぬ前に好きな人のおしっこを飲みたい、という美月の不思議な願いが

宙ぶらりんになっている。

実際に舞台上で男優が紙コップに尿をとらされる、っていうこと以外は、あまり面白みが無かった。

その後のギャグシーンで使われてはいたけど、

同じ場面で美月が死んじゃうのでおしっこの話なんかしてるどころではなくなってしまう。


反対側から見たら違ったのだろうか。

実はこの芝居、劇場の中央に細長く舞台が設置されていて、

観客は両側から舞台を挟む形で見られるようになっていたのだ。

美月の死に顔の枕元に、

紙コップに入れられた尿が置いてあるのを見ていたら、少し印象が違ったかもしれない。


人数の多い芝居を上手くまとめてはいたけど、芝居の傾向を盛り込みすぎた感じ。

結構、脚本家さん迷ったのかもしれない。

気力があったら、練り直して再演してほしい気がする。

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