おはしょり稽古 -3ページ目

現実は直視してナンボです

仏団観音びらき

「女殺駄目男地獄(おんなごろしだめんずじごく)」

作・演出:元木香吏

@新宿タイニィアリス


「こんにちは!爽やかな午前三時、いかがお過ごしでしょうか?」


阿久悠子が司会を務めるだめんず検証番組『目覚めよ』では、

駄目な男にはまった挙句に命を落とした女達を、再現VTRで紹介している。

一本終わるごとに、コメンテーターなかにし礼子が解説と教訓を披露。

ご冥福をお祈りしつつCMに向かい、

途中では宝塚歌劇団のそっくりさんによるパフォーマンスや、

だめんずと対照的な「金持ちイケメン」を捕まえる女の合コン術などミニコーナーも設けている。


駄目な男とそれにハマる女の話を紹介するために、この作品はテレビ番組を作ってしまった。

驚いた。ふつーそこまでやらないからだ。

だいたい芝居の中にテレビ関係を登場させると、

実況インタビューや記者会見で話の序章を作るというパターンが多い。ことにSF系の場合はとても多くなる。

テレビから流れてくるニュースなら、話題や伏線。テレビ番組そのものが話の軸でない限り、番組の世界観をそのまま持ってくることはほとんど無い。

テレビのノリがそのまま再現されていたので、妙なところで嘘を感じずに済むのが見ていて好もしかった。

大笑いのギャグ芝居なのだが、CMもちゃんとあってとても丁寧に作りこんである。


話のメインである再現VTRは、芝居と歌・ダンスが半々ぐらい。

ピンクレディーの曲が掛かるたびに、ちゃんと衣装に着替えて役者が出てくる。

男も海パンシュノーケルで、ただ踊るためだけに出てきたりする。いいなぁ。フェミニズム団体のスピーチよりずっと男女平等を感じる。


浮気性で無職の男のために体を売って、梅毒で死んだ女の話を笑いながら見た。

「あんな女でもオレは愛している」と夕日の中を去る男に対して「バーカ」と笑うように、借金魔の親子に殴られてふっ飛ぶ女を笑った。

男女を逆転させてみればありがちな話なのだが、たくさんのダンスとオーバーな芝居のために、女達の不幸が女々しさや哀愁を突き抜けてしまっている。某歌劇団の芝居に近いかもしれない。


結婚前にヤク中の男に惚れて自分もドラッグにはまってしまった女の話になると、突き抜けすぎて逆に笑えなくなってくる。

男はなかなかそんなことはできない。ドラッグにはまる、っていうのは割と、

「かっこいい」

感じに描かれることが多かったからだ。

男の書いた芝居だったら、男は愛する人を殺した後にはなぜか自分で正気に戻って泣くだろう。ドラッグに溺れた自分の弱さを訴えるかもしれない。

この芝居の女はそんなことしない。一度は正気に戻って婚約者の元に戻ろうとするも、

「ウェディングケーキだー!」

と彼を包丁でメッタ刺しにしてしまう。彼女はラリったまま港でマフィアに撃ち殺される。


それにしても皆綺麗にふっ飛ぶなぁ。

暴力のシーンがすごく上手で、それが余計に面白かった。


エンディングテーマは「恋の奴隷」。

芝居のラストは『目覚めよ』の楽屋裏で、ありがちだけど悲惨なオチを迎える。

実際ダメな男にはまってたら、大笑いしつつも泣いちゃうなぁ。

今回が第五回公演という新進の関西の劇団だが、これからもがんばっていってほしい。

「強い男と弱い女は存在しない」って誰かが言ってた

蜻蛉玉

「ニセS高原から」

作:平田オリザ 演出:島林愛

@こまばアゴラ劇場

「なんかあの人すっごいいい匂いしたんだよね~。」「あんた死体の匂い嗅いだの?」

観客にぜんぶ台詞を聞かせようとしない発声はポツドールに似ているけど、

もしポツドール編の人間が一人でも同じ場にいたら、絶句して愛想笑いも忘れてしまうだろう。


「静かに死を待つ人達」という設定を前面に出していたように感じられた。

厳密に言うと、静かではない。

何度も無意味に呼び出された看護婦は、怒って自分でベルを何度も鳴らす。

彼氏の結婚を告げられた村西は、談話室の床にへたりこんで悲しむ。

「みんな死んじゃったんだよ」と入院四年目の福島はのんびり喋る。「自分は死ぬかもしれない」という事実から、目をそらしている人がいない。


この芝居を見て初めて、

「あ、福島って最後死ぬんだ。死んだように見えるんだ。」

と気づいた。

これで原作の脚本もまともに読んでないことがバレてしまったが、筆者のことはさておいて、蜻蛉玉編「ニセS高原から」で一番強く感じるのは死の匂いであり、看護師をふくめた元気な人と病人の境目である。


だって冒頭に引用したセリフで既に、「死の匂い」の話をしている。原作には

「死んだ人の悪口を言うのは禁止なんですよ」

という会話が出ているが、ここにはそんなムードは無い。看病に来ている姉は弟の退院を信じているし、村西はさんざ泣いた後で立ち直るだろう。

不安や苦しみを表に出せる人はしぶとくて強いということがよく分かった。


男女が逆転したことで、エピソードがいくつか減っていた。

福島を含めた二組のカップルが、以前は違う組み合わせで付き合っていたこと。

患者の兄妹(蜻蛉玉編では姉と弟)が、恋愛関係にあるらしいこと。

全体的に隠し事が少なくなったので、無難な現実にどろっと過去がにじむようなシーンも減った。

患者の弟と福島の間の色恋沙汰も、親子愛がゆがんだような感じになって、福島の夢の中で表現される。

詩的な雰囲気が強いぶん、人によってはさっぱりしすぎている印象を受けるかもしれない。

どろどろした部分を思いきり見せることで、青春ドラマっぽさが少し入った。


登場人物の男女を逆転させただけで、こんなに話が変わってしまう。

男女の違いがはっきりした代わりに、演出家と脚本家の境目が分からなくなった作品だった。

世界はせまい 世界は同じ

ポツドール

「ニセS高原から」

作:平田オリザ 演出:三浦大輔

@こまばアゴラ劇場


サナトリウムという場所が広がりを持って感じられたのが三条会の『ニセS高原から』だったが、ポツドールの作品の舞台は非常に狭苦しい。いつ回復するか分からない病人とその関係者たちの、些細な苛立ちがそう見せているんだと思う。


患者たちの雑談の一つに、堀辰雄の「風立ちぬ」についての話がある。「風立ちぬ いざ生きめやも」ってどういう意味だろう、あの話みたいなことって実際あるのかなぁ、などと結構長いこと話題にされるのだが、ポツドールのサナトリウムでは、

「お前『風立ちぬ』がどうとかって寒いんだけど」

で一蹴される。もっと楽しいこと、たとえばサンボマスターがどうとか、あの患者はヤバいとか、そういうことの方がここでは大事だ。

皆が面白おかしく過ごしたくて苛々している。この空気なら、確かに森田剛が馴染むだろう。


彼女の結婚が決まってふられる村西という患者は、不意をつかれて逆ギレする。八つ当たりされて、報告に来た彼女の友人も逆上する。それでも他人が来れば会話が途切れて、二人になったあとも一応お互い謝って別れてしまう。

すごい閉塞感だ。我を忘れて怒鳴れなくなった人達の苛立ちが、八つ当たりの連鎖を経て登場人物全員に広がっていく。

何度も何度も看護人呼び出しのベルが鳴らされるのがとてもよかった。仕事中である分、看護人は患者よりも鬱屈していて恋愛沙汰に走る。ポツドールの芝居は「ドキュメンタリー」と言われるけど、テレビならこんなに卑近な視点では撮らないだろう。看護する側の余裕の無さは、たぶん一番報道してはいけないところのような気がする。


キャスティングが適格だ。わーこぅゆう女ったらしっているよな確かに、と思わせるのが上手い。

笑ったのが本間一郎という患者で、彼は面会人が来るわけでもなく、話の中で独立している。くしゃみが三回出たからと言って自分の容態を心配したりするような人なのだが、皆がリアルに苛々しているだけに、周りから逸脱した彼のキャラで解放された。つられて苛々してしまうことも多いが、たまに笑える所があって少し風通しが良くなる。


公演が終わって出口に向き直ったら、二人連れらしい男女のうちの男性が、かがんで劇場を出ようとしていた女性の頭を押さえつつ、腰に手を回していた。

今見た舞台が、現実に降りてきたような気がした。

デジタル・ピカソ

三条会

「ニセS高原から~『S高原から』連続上演~」

作:平田オリザ 演出:関美能留

@こまばアゴラ劇場


三条会の作品は、「S高原から」の公演ビデオをパソコンで加工したような作品だ。

B.G.M.の音量を上げるのと同じ感覚で、一つの台詞の中の、例えば「殺意」のボリュームを最大にする。「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽と一緒に、ミュージカルの常識を作品に合成する。

だから汗まみれの役者がとても人工的な印象だ。現実離れしてドスの利いた声で「こんばんは」「参ったなぁ」と叫び、本来の言葉の意味を掻き消す。

サブ・テキストと呼ばれていた言葉にならないものが、テキストを押し流して氾濫していた。


色鮮やかな赤と緑の舞台に、「ドレミの歌」が入る。舞台には誰もいないので、観客はとりあえず音楽を聴いている。

と、上手の奥でリズムに乗っている男がいるのだ。上半身裸でスキンヘッドの男に気づくと同時に、いつの間にか照明が変化していたことがわかる。こんなに不自然な光景なのにリアルさが息づいている。


感情が氾濫しているから、話し相手によってもあからさまに声のトーンが変わる。更に一人数役を演じる役者もいて、誰が誰なのか聞き取るだけでも精一杯だ。

なぜ、作品自体が崩壊しないのだろう。大げさ過ぎる言い回しに笑いながら見ていると、まだ見たことが無い本家「S高原から」がしきりに重なるのである。場にいる中で一人だけにリアルな芝居をさせたり、大声が飛び交う中で大事な台詞を残したり、演出家のバランス感覚には頭が下がる。


四角に真紅の長椅子が置かれただけのスペースに、違う空間が共存する瞬間が多々見られた。本当はくつろいでいるはずのない医者や看護婦が、鏡の中の存在として椅子に座っている。医者の役に戻って喋りだすまで、彼らはいないことになっているのだ。

机に置かれたベルを鳴らすと、白衣の人間が舞台を横切って走り抜ける。深夜の宿直室と一人で不貞寝している患者の部屋が、四角いスペースの中にふと共存する。

作品の舞台であるサナトリウムの風景を、時にはミュージカルの常識でつなげながら多面的に描いていた。ちょっとピカソの絵みたいだ。現実のものは見る場所によって見え方が変わる。


大声に加えて、突然大笑いするシーンが数多く見られた。

笑う理由は観客にはわからない。

しかし、恋人が別の人と結婚を決めていると告げられた患者の横で、不意に爆発する笑い声は本当にリアルだ。笑っている人々は、指揮者役の人間の指示で一斉に笑う。その意味の無い笑いが患者の上に降り注ぐときに、嘘の中から現実が立ち上がって見える。

ラスト近くに大笑いしている患者達は、深夜のサナトリウムの一室を思わせて、作品の世界を大きく広げていた。何て言ってるかわかんない怒鳴り声もいい。そうだよな、本当は正確に聞き取れるものばっかりがあるわけじゃない。


四人の競作となる「ニセS高原から」だが、最初がこの作品で、本当によかったと思っている。

ドキュメンタリーじゃ物足りない

☆SPARK☆プロデュース セレンdipiティー公演

「アリス、オキナワ!」

作・演出:入江崇史 映像監督:谷村香織

@新宿タィニィアリス


なんと舞台と映像作品のコラボだという。しかもインプロを取り入れて作ったということだ。

映像が入る舞台作品は珍しくないけど、スライド程度のものが多いし、演出家と並んで「映像監督」が紹介されることはあまり無い。

今回の映像は立派に作品だった。芝居にもちゃんと組み入れられている。

だけど何だか腑に落ちない。これって、芝居っていうんだろうか。


失踪した夫を捜して沖縄に来た妻が、現地の人々と協力して夫の愛したホテルを建て直し、夫の死を知った後も前向きに生きていく。

舞台では、それまでの過程が淡々と描写される。南の島の雰囲気を存分に表現して、会話も気だるい。インプロを取り入れた会話は確かに自然だし、面白い掛け合いもちらほら見受けられた。あまりに自然すぎて逆に不自然だ。作品として未完成なようにさえ見えてしまう。

もしかして毎回即興だったのだろうか?どっちなのか本当に分からない。それほどに間延びした、ぎごちない印象を受けた。

暗転を挟んで、従業員の気だるい会話と、ホテルに来訪者が来たシーンが繰り返される。

来訪者はみんな沖縄に癒される。癒されて和解して和んでしまう。都会の真ん中の劇場で演じるには、あまりに純粋で美しい人達だった。


映像作品と芝居が連動しすぎていることにも違和感を覚えた。

舞台でやれない街中や沖縄の海を映像で見せてつなげていく。ということは、空白の時間が無いということだ。予想のつくものばかりなら、何も見ていたってしょうがない。

舞台と比べて映像は印象深いシーンが多かったが、それでも演劇畑の演出家なら、冒頭のシーンをカットして、映像も、夫のいない家でのアリスを見せるだけにするだろう。

せっかく役者が客席に海を見出しているのに、本物の海を見せてしまってはいけない。海の映像なんて見慣れてしまっていて、想像の海にはかなわないからだ。


ドラマ仕立てのドキュメンタリーのようで、テレビ放映のほうが面白いような気がした。やり直しも利くし、何よりご飯を食べながらでも見られる。

アリスという名前にも、特に意味は無かったようだ。預言者じみた島のおばあさんと、夢枕に立つ死んだ夫。

沖縄の美しさをひたすらに描く姿勢が、なんだかがっくりするほど俗っぽかった。

普遍的な不変のお芝居

しずくまち♭

「卒塔婆小町」

作:三島由紀夫 演出:ナカヤマカズコ 岡島仁美

@荻窪・音楽専用空間クレモニア


この作品、しずくまち♭の「持ちネタ」らしい。「全国どこででも上演いたします」とパンフレットに記載してある。音楽の生演奏と芝居のコラボレーションが売りだが、楽器自体もピアノ・三味線・ボンゴと多彩だ。


「卒塔婆小町」は不思議な芝居で、短い時間の中で時間と価値観が交錯する。昔「小町」と呼ばれた老婆のラストの変身は、老婆の演技と、衣装を脱ぎ捨てることで表現していた。無難な手法である。

濃いグレーのぼろ服の下から真紅の衣装が出てくるとはっとするし、衣装や時代とかみ合わない老婆の物腰もすごく不思議だ。これならどこへでも持っていける。同時に、大幅に変化することは決して無いだろうと思った。芝居はもちろんそうだし、役者もきっと変わらない。


詩人を演じていたナカヤマカズコさんが、すごく踵から歩くのが気になった。

靴音ももちろん気にはなったが、そこから彼女の持っている「演技」という型が象徴的に表されているような気がしてしまった。

もちろん動きは、若い詩人のようでとても分かり易い。でも分かり易いだけのような気がするのだ。生演奏とのコラボなのに、音に対する配慮が欠けているようにも思えてしまう。


老婆と詩人以外の人物は、「獅子丸」という人物がまとめて演じる。若い小町の登場する夜会のシーンでは、ボンゴの音に合わせて動いていて、生演奏の利点が存分に出ていた。朗々と響く声が印象に残っている。


この芝居が色々な場所を回って、非常に芝居を身近に感じるような人もいるだろう。

変わることを恐れずに、上演を続けてほしいと思った。

スピーチにしたら十五分ぐらい

演劇人集団☆河童塾

「Deep Forest」

作・演出:加藤真人

@新宿タイニィアリス


皆とにかくよく喋る。会話ベースの劇なのに、何だかやたら喋りまくっている。何でだろう。


青木が原樹海での事件をモチーフにした話である。

後ろに樹海の管理小屋のセットが丁寧に組まれていて、全面が樹海。床に本物の葉っぱが散っていて、緑の木漏れ日のような照明が降り注いでいる。


誘拐に見せかけるように失踪した女子大生・正美の、境遇と心境。正美と同じく市会議員を父に持つ、管理小屋の息子。ぐれた挙句バイク事故で死んだ彼と、正美は樹海で出会い、彼の後悔に触れる。

さらに彷徨ううちに今度は彼の母親の死体に出会う。彼の母親の範子は樹海のガイドを務めていて、正美が失踪したのに責任を感じて樹海で首を吊ったのだった。反抗していた父親の優しさにも思い至り、最終的に正美は樹海から生還して、電話で母に詫びるのであった。・・・・・・「めでたし、めでたし」?


話は確かに進んでいるけど、

「周りの人に迷惑がかかるから自殺するなんてバカなこと考えちゃいけない」

で結論はずっと止まっている。正しいが、正しいだけである。


親に息子が反発するシーンで、

「本当はこんなのいけないって分かってるんだよ」

と息子が言う。

その台詞を両親の前で言えないからみんな暴れるんではないだろうか?

彼が暴れるこのワンシーンで、彼の前科・就職先決定・事件に際しての父親の対応・それに対する自分の感情が語られる。彼本人の口から。気立てのいい息子ではないか。正美に関しても同様で、彼の父親と天体観測をした思い出を樹海の中で見つけて、

「(樹海は)私の中で、一番天国に近い場所・・・・」

と言う中盤のシーンでこの話は終わっている。月曜九時の連ドラだってこんなに急展開じゃない。台詞を聞いていれば話が分かる、二時間ドラマの作りである。


事実をモチーフにした芝居ということでか、言葉に気を遣いすぎたようだ。誤解を受けないために一番いいのは、説明し続けることではなく語らないことではないだろうか。本人でない限り事情が分からないのならば、それが一番適切に思える。


六月に観た「マイン“05」と同じテーマだったが、まとまりの良さでは勝るものの、共感の度合いはすごく低かった。次回に期待。(「マイン“05」のレビューは下記)

http://ameblo.jp/oh-hasyorillesson/entry-10002450249.html

夏の空き地におじさんが二人

東京黙劇ユニットKANIKAMA

「collection vol.2」

作:小島屋万助・本田愛也 演出:吉沢耕一

@新宿タイニィアリス

パントマイムで演じられる作品群は、無声映画時代のアニメを思わせた。ディズニーが無声映画撮っていたかどうかわかんないけど、アニメ以外の映画、例えばチャップリンを連想することは一切無かった。舞台上の二人はモノクロのミッキーやミニーに似て、人間よりずっと面白い。

冒頭の「ペンキ屋」なんてタイトルからしてセピア色だが、古典的なネタをかっちりやりつつ、二人は観客の想像力を使ってぽんとチャップリンから逃れてしまう。高いところにいるのを忘れて、つい後ろに下がって塗り具合を確認・・・・・・ということになっても、そっぽを向いて口笛を吹けば重力がごまかせてしまう。身一つでやっている所がベタな笑いをいくらか新鮮に見せてくれた。脚立や梯子など、長いものを使ったギャグなども技術を駆使してベタにこなす。世界観が西欧なのに、地面が無いことに気づいたときの

「あっ・・・・・」

という無音の間がすごく日本的で面白い。


二人のソロパフォーマンスは圧巻。「白球」では本田愛也が甲子園球場を、「出勤」では小島屋万助が一人暮らしのサラリーマンの家を作り上げてしまう。特に「白球」はサヨナラホームランと共に、球場どころか時間も飛び越えて、サヨナラ負けしたピッチャーのいる屋上まで行ってしまった。冒頭のベタな作品は、観客の頭の運動のためだったのかもしれない。

このソロパフォーマンスも、特筆すべきは「間」だと思う。さぁ始まるぞ、決着つくぞ、ってところでカメラが応援団の風景を映す。鍵が無い無い無いって捜してるサラリーマンがふっと冷蔵庫開けて涼んでしまう。ついでに中のアイスかなんか食べてくつろいでしまう。ついでに言うと本田愛也の女役はどれもミニーマウスやベティーちゃんに似ていた。


後半の二作になると、もうチャップリンはどこにもいない。「Dancing in the rain」は胡散臭い占い結果のB.G.M.に使われてしまうし、最後の「対局」なんて対局なのにほとんど将棋なんかしちゃいない。

最後は「全部マイムでやる」という基本的なルールさえさりげなく違反する。耳を澄ますと「ライオン」と「トラ」に聞こえる効果音を聞いて、えーっと思いながら笑った笑った。


カーテンコールのときまで小島屋万助の台詞をマイムする本田愛也を見ていると、

「おっちゃんになったのも気づかずに空き地で遊んでいる田舎の子供」

を見ているような気がした。体を使ったパフォーマンスは、誤魔化しが利かないから習得に時間がかかる。その技術を気取るのではなく笑わせるのに使えるのは、おっちゃん少年の特権なのかもしれない。

(文中敬称略)

キツイ・キタナイ・キケン

ゴキブリコンビナート

「君のオリモノはレモンの匂い」

作・演出:Dr.エクアドル

@新宿タイニィアリス

丸太で組まれた足場の中心に、四角い水溜り。

オールスタンディング形式と聞いてライブハウスのような形態を想像していたが、そんなひねりの無いものではなかったようだ。ベンチ上の観客席には立っても座ってもOK、ゴキブリコンビナートの「3Kミュージカル」は正装した新郎新婦の歌声で始まった。


ハネムーンに国立公園に来た新婚夫婦は、原始人のような野蛮な男達に襲われて身ぐるみ剥がれる。

おかみに助けられて宿に逃げ帰り、ショックから立ち直った花嫁は気を取り直して初夜を始めようとする。

しかし花婿は筋金入りのロリコンだった。


観客席の頭上の丸太に猿のようによじ登って、役者は別の舞台へ移動する。宿に逃げ帰る時点で花嫁はウェディングドレスを剥がれてほぼ全裸。後半では下半分が無いスクール水着で逆さ吊りにされ、最後は男に陰部の匂いを嗅がれながら花婿の生首を抱いて歌う。なかなか切ない役回りである。


半分猿のような男たちは、集団就職で雇われた「木こり」だった。

失明した親方の元で暴走し、木が切れないのでキノコを集めて生計を立てていたが、新リーダーの不祥事で新たな争いが起こる。

後半になると役者の息切れも目立ってくるが、新リーダーの木こりの一人息子の話や被差別人種としての過去など、再現シーンが度々あるにも関わらず話の筋はつかみやすい。一つの言葉から連想ゲームのように場面や曲調が変わっていき、「歌や踊りで処理する」という技法を最大限に使っているように見受けられた。

合いの手のように入る、

「日本人の百人に二人は網膜剥離」

とか、

「ベニテングタケ、神経性の毒」「現在でも支部や新宿四谷などの地下では夜な夜なベニテングタケのパーティーが開かれているのさ」

などの豆知識が面白い。二時間歌いっぱなしで本筋を伝えきるだけでも苦しいだろうに、観客サービスを忘れない。終盤になると、

「レモンの匂いのオリモノを中心に、様々な欲望がクロスする」

と台本のコンセプトまで歌ってしまっている。そうだよな、歌っちゃえばとっても分かり易い。

舞台では放尿やあからさまな虐待が起こっているが、演出家の割り切った姿勢は大変清々しく感じられた。


目の前で人が嬲られるのを観ていると、芝居が好きということは「野次馬根性が旺盛」ってことでもあるのだなと実感した。支給されたレインコートで水しぶきから身を守りつつ、舞台をよく観たくてうろうろしてしまう。


初日ならではというか、スピーカーの音が少し大きすぎて歌詞が若干聞き取りづらかったが、中盤小さくなったので二日目以降は大丈夫だったと思う。レモンの芳香剤の匂いが充満する中で二時間たっぷり野次馬をやって、半ば酸欠状態で劇場を出た。

寺山修司と汲み取り便所

フランクサバゲリラ

「僕らの世界残酷名作シリーズ1・まやかしトットちゃん」

作・演出:エド・W・ガニエスタ

@新宿タイニィアリス

とても怖いお化け屋敷として有名な富士急ハイランドの「幽霊病棟」は、若手の役者など人間が幽霊に紛して客に襲い掛かってくるらしい。「まやかしトットちゃん」は、生身の人間の臭いをそのままつぎ込んだ、見世物小屋の催しだった。


舞台に吊られている三色の、寄席で使うような幕は舞台を幕前と本舞台に分ける。一組ごとに上演時間の制限がある学生演劇や学芸会なんかで多用される方法だ。

場面転換の多い芝居を、この幕の上げ下ろしと、書き割りや台車を使った簡素な舞台装置で補っている。大げさな役者の身振りのところどころに、明らかに転換の都合上だけの動きと分かるところがあるのが面白い。


今は引退した古井戸伝次郎の、学校の用務員時代の恐怖体験から話は始まる。おどろおどろしいダンスがあって話は学校の便所の中へ。便所の底には五人の化け物、「赤犬サーカス団」が住んでいる。

サーカス団を便所の中に突き落としたのはどうやら伝次郎らしい。化け物達は復讐のために、十日前に死んだ彼の、孫娘の胎内に宿る。ある日自宅の便所に落ちた彼女は、落ちている間の走馬灯の中で、心臓が四つある怪物を産む。


1962年の鳥取県を舞台にした話は、漫画ブームなどその時代の「時事ネタ」を巻き込んで進む。孫娘が本当に産むはずだった彼女の子どもは白塗り。寺山修司ファンが初めて書いた、高校の文化祭の演目のようであった。


夢の中で孫娘の友達に扮していた杉原ケメ子は、赤犬サーカス団の看板女優「トットちゃん」だった。便所の底に落ちて夢から醒めた孫娘に、彼女は自分が用務員時代の伝次郎にレイプされて古井戸に身を投げたこと、孫娘と同じく妊娠していたこと、伝次郎が言っていた「恐怖体験」は事実を隠すためのデマだったことを明かす。


一人何役も演じてきた劇団員は、最後は全員「赤犬サーカス団」のメンバーになって踊り狂う。客席にばら撒かれる飴。猥雑な雰囲気で強引に話の収拾をつかせていて、正に穴に落ちていく間の悪夢のようだった。