おはしょり稽古 -2ページ目

敷居の低さが心地いい芝居

SOMA組

「SOMA on 風呂屋」

作・早馬瑞陽・下山リョウ・本間拓  演出:早馬瑞陽

@下北沢・下北ファインホール


前回行った「SOMA THE BEST」(レビュー「ひとり芝居ができるということ」)から早数ヶ月。

あちこち走り回って疲れていたので、久々にSOMA組の公演を見に行った。


休憩を入れて二時間の二部構成。

受付で缶のウーロン茶やお菓子をもらえるので、ばりばり食べながら見る。

ついでにコンビニで買ったお握りも出して、ほとんど相撲のマス席の年寄りのノリである。

(しかもよりによって「ぶり寿司」のお握り)


一部・二部ともに作品数は6本。

「見たやつばっかりだったでしょ~」と終演後にSOMAさんは仰っていたが、

以前も見たと記憶しているのは「13班田中組Ⅰ」「Ⅱ」と「ゴキブリを叩く女」「ママ!」の4作品。

全部で12本だからちょうど3分の1。「ばっかり」っていう印象は特に受けなかった。

金欠や多忙を理由にして、新作公演ばっかりを狙って見ていたせいかもしれない。


定番シリーズの「13班田中組」は一番初期のネタで、

洗練されてきた反面、演じるのに慣れてしまっている感じも受けた。

多分、「ひとり芝居ナイト」のような単独公演でないイベントでは、何度も披露した作品なんだろう。

再演するときに劇団がよく引っかかる問題だよなー、と思って見ていた。


ひとり芝居はキャスティングを変更したりできないから、

新鮮な気持ちで再演をやり続けるのは大変だ。

内容がギャグだと特にそうで、稽古するわけだから内容に自分が飽きてしまう。


でも「ゴキブリをたたく女」と「ママ!」は、

前も見たのに笑っちゃったんだよなぁ。

「田中組」が完全にナンセンスギャグなのに対して、その二作はシチュエーション・コメディだったからかも。うわぁ片仮名まみれだ。日常を舞台にしてる話だから、完全なギャグより飽きにくいってことね。


一つの公演の中で、リンクしている作品があるのも面白い。

一部の最初の「指輪」は営業マンが主人公なのだが、

彼が「契約取れそう」と狙っているおばあちゃんを主人公にしたのが、

二部の二番目「となりのおばあちゃん」。

二部の最初の「ママ!」の続きは、

二部の三番目「猫につめとぎを教える方法」として出てくる。


そう、今回一番すごいなーと思ったのは、

作品が並ぶ順番である。構成って言った方がいいかな。それはどっちでもいいか。


二部が始まってすぐの「ママ!」「となりのおばあちゃん」は、

大爆笑のコメディーである。

「となりのおばあちゃん」なんて殆ど一発芸に近い。そりゃ反則だろ、ってぐらいおかしい作品である。


ところがその次の「猫につめとぎを教える方法」は、

コメディーではあるんだけど、ラストがちょっと不思議なオチを迎える。

ひとり芝居っていう設定を利用して、観客の思い込みをひょいっとひっくり返してしまうような終わり方で、

観客が「あれ?」ってなったところで舞台は暗転する。


その次の「サイコムーン」が、腹にずんとくるホラーなのだ。

背骨じゃなくて下腹にくる。

だから見てるときは意外に怖くない。一拍置いてゆっくり恐怖が上がってくる。

(うう、書いてて怖くなってきた)


次の「蒼い血の行方」は、

前回レビューで言う「THE EDGE」のようなSFもので、

クローン人間を主人公に据えた、こちらもしんと底冷えのする作品である。


何かを「知らない」人間に、どうしてあんなに簡単になれるんだろうと思う。

狂気の中にいる人間や、外に出たことのないクローン人間になるとき、

SOMAさんは自分が知っている常識をすとんと忘れる。

さっきまで俗世にまみれた人として生き生きと動いていた人だから、そのギャップが一層怖い。

ガラス玉のような瞳が夢に出てきそうだ。


最後の「幽霊譚」は、一転して暖かく、ほのぼのとした結末を迎える。

でも、その前の「サイコムーン」「蒼い血の行方」が効いてるから、

冒頭の「いかにも」な幽霊がとても怖く写る。

行灯の光のような照明の中に登場するSOMAさんは、写楽の浮世絵そのままの顔をしていてすごい迫力だった。

Yシャツとズボンの上に大きな着物を羽織って、

少し二人羽織を連想させるような恰好で見事に一人二役を演じ分けていた。

この辺はさすがだ。衣装を替えずに演じ分けるなんてすごいと思っていたけど、衣装を変えながら演じ分けるのもすごいんだと知った。


作品のクオリティーが安定しているので、

小劇場芝居には珍しく、「この劇団の公演なら安心」と思って見に行ける。

最初に述べたように、観客への心配りも随所に出ていて嬉しい。

後味良く帰ってもらおうという気持ちは、先述したような公演の順番からも窺える。

(「サイコムーン」の恐怖はお持ち帰りしましたが)


すっかり一介のファンの書き方になってしまったが、

明日までやっているので、ぜひ一度足を運んでほしい。

「ひとり芝居」って聞いて腹話術を連想するような人には、特に見てほしい作品だ。

現代芸術・ポップアート「悪夢」

ひょっとこ乱舞

「今はチキンを」

作・演出:広田淳一

@大塚・萬スタジオ


「下を見下ろすと!」

「雲が見えます!」


数百年もの間地震の起こっていない国は、いつしか高層ビルを競って建て始めた。
各階ごとが一つの街になっているビルの中で、住民は一生の殆どを過ごす。
耐震建築も忘れ去られた時代にビルの中に暮らす一つの家族。
彼らの住んでいる隣のビルに、ある日、鯨が激突する。


見るのは今回で三回目だけど、色のセンスがとてもいいといつも思う。
二色ぐらいのシンプルな舞台に、凝った衣装が映える。
舞台写真を撮ったらポップアートみたいに見えるんじゃないだろうか。
役者も動きや台詞回しが綺麗で、それがこの劇団の、未来ファンタジーみたいな芝居の世界観に一役買っている。
この劇団の作風はいつも不思議だ。
『原作・吉田戦車 作画・さくらももこ』の漫画だったら、こんな感じの話になるかもしれない。


毎回ダンスがある劇団なんだけど、
今回はそれが話の中に組み込まれていなかったのが残念だった。
個人的に、冒頭とカーテンコールだけダンスっていう作品は好きじゃない。
それに、先述したようにこの作品は、
現実からぽんと外れた物語を色鮮やかに見せてくれる。
この劇団には特に、他の手段じゃ表現できないシーンをダンスで表現してほしかった。


ビルに激突した鯨の中では結婚披露宴をやっていて、
激突事故で花婿は死んで、事故の陰には大きな組織の陰謀がある。
だけどこんなにぶっ飛んだ話なのに、話の軸になる一家は極めて日常的に苦しんでいる。


隣のビルの事故で、飛んできた鯨の髭が母親の体を貫通した。
命には別状がないが、あまりに上手に刺さりすぎていて抜くに抜けない。
その家の長男は盗撮ライブチャットにはまっていて、そこに出演していた小学生に片思いする。
しかし当の彼女はチャットの管理人が好きで、彼に逆らえないでいる。
そして、
一年間家出して帰ってきた次男と、その次男の妻と恋愛関係にある三男。


とりわけ切ないのは、この、家出していた次男の幼い頃のエピソードだ。

幼なじみの死が絡んだ記憶。彼はその死を自分の罪であり、償えない罪だと思っている。

子供ゆえにやったことでもあるから、成長して賢くなるほどに、その罪を認識できるようになるたびに彼は苦しくなる。

だから彼は登場してから殆どのシーンで笑い、周りのテンションなんか無視してはしゃぎ回る。

そして記憶を抱えたまま、自ら家族から転がり落ちていく。

鯨の事故を仕組んだ大きな組織の名は「ベイビークライベイビー」。
彼を含めた陽気な人々は、もう生まれたばかりの頃のようには泣けない。


ゴシックに飾り立てて何かといえば人形やサーカスが出てくる世界より、
ひょっとこ乱舞の描くポップな世界の方が断然「悪夢」に近い。
次男の罪を我がことと感じている母親は、髭の刺さった体でパートに通っていると笑う。
幼なじみの死を知ったときに次男は給食のカレーを全部机に吐いてしまい、その机に突っ伏して泣いた。
世間に向けて不幸をアピールするほど、余裕の無い人達があたしは好きだ。
だからその人達が笑うのが切ない。


完成度の高いストーリー構成ではなかったと思う。
総合的に能力が高いからそこそこには面白いけど、全体的に語りの多い点などからは、結構とっ散らかった印象を受けた。

地震の到来を予感させたまま、語り手の言うとおり、『大変中途半端な形で』この話は終わる。
実際にビルが崩れるシーンを描かなかったのはすごいと思った。人が災害でたくさん死ぬシーンを、世界観を損なわずに描くのは難しい。

それでも描きたいんだい、と突っ込まなかったところは、作品全体の完成度を考えているように思う。


ただ、ラストの台詞が「ぼくはまだ、ここで生きている」だったのが、なんか妙にセンチメンタルで嫌だった。
その声さえも、
「さあ、おしまいの時間です!」という女優二人の声に消されてしまったほうが、ずっとかっこ良かったと思う。


手放しで褒められる作品じゃなかったけど、思うさま大笑いさせてもらった。
東京に大地震が来る前にぜひ再演してほしい。
その際は、観客席と舞台が分かれていない造りの場所でやってほしいと思う。
ひょっとこ乱舞の大きな魅力は、劇場の外まで包み込むような世界観なのだから。

生々しくないリアル。

青年団+劇団PARK 日韓合同公演

「ソウルノート」(原題:東京ノート)

作:平田オリザ  演出:平田オリザ・朴広正

@こまばアゴラ劇場


入ってすぐに、大きな文字が目に入った。


            「JAN

               VERMEER

            The Master Of Light」


同行した人に教えられて、

初めてフェルメールのことだと判った。

舞台装置の一部にはめこまれているような焦げ茶色の木目の看板。

看板以外は真っ白で、

「光の魔術師」というよりも、「白の魔術師」と言われたユトリロという画家の絵を連想していた。


書き下ろされてから10年が経つこの戯曲は、

今回の公演にあたって舞台を2014年のソウルに移した。

ヨーロッパの絵が大量に避難してきて嬉しい悲鳴をあげている美術館の中で、

戦争の足音を生活に含んで、

人びとが会話を交わす。


日韓の言葉の壁を埋めるのは中央の大きな白い柱。

役者が韓国語のセリフを喋ると、

ここに字幕が映し出されるようになっている。


大変に画期的だと思ったけど個人的にはこの字幕が辛かった。

なんせ、

複数の場所で同時に会話が交わされるのがウリの芝居である。

字幕を読んでいたら日本人の会話がどんどん過ぎてしまい、

ふっと見たら深刻な感じに・・・ということも一度ならずあった。


一つの台詞ごとに字幕が表示されるから、

ときどき役者の台詞を先読みする形になってしまうのも残念ではあった。

けど、

あいづちの単位まで分割して映すのはスタッフとしても厳しいだろうし、

あんまり細かく分けてしまったら、

二箇所で韓国人が会話を交わすシーンが大変だったろう。

とても合理的に表示されていたので、ここに文句を言う気持ちは全く無い。


「S高原から」に続いて二回目の平田オリザ芝居だけど、

さすが上手いな、

としか思わなかった。


二人から、多くてもせいぜい五人ぐらいの人達がグループ行動しているという構造で、

戦争の足音が聞こえているからそれについての話題も出て、

でも特に話のメインになる人達は、戦争とは無関係な話に心を囚われている。

リアルだとは思うけど、

あたしは「S高原から」の方が好きだ。舞台になっている場所(「S高原から」ではサナトリウム)が、ちゃんと軸になっている感じが自分の肌に合っている。


それに、

サン=デグジュペリの話が出たりアカシアの花の話が出たり、

この芝居の細かいエピソードって、いちいち「冬のソナタ」していて趣味にあまり合わない。

「ソウルノート」の登場人物って皆ピュアだ。

わっと泣かずに堪えるシーンがいくつもあって、それがとてもいい。

なんだ、大人って純真なんだなぁ。

清潔な登場人物達の前で、こまっしゃくれた若造は「ふん」と思うしかなかった。


岸田戯曲賞を受賞して、七ヶ国語に翻訳。世界各地で上演されている作品である。

広く受け入れられ愛された作品は、

真実味を出す演出が上手く、なおかつ生臭さが微塵も無かった。

大変上質なコメディーでした

青年団若手自主企画

「地球の片隅で~ライフ・レント編~」

作:宮森さつき 演出:多田淳之介

@アトリエ春風舎


チラシの裏の宣伝文句に騙されて、すっかり油断して見ていた。


「今回は宴会芸を考える話!

俳優もよりすぐりのコメディアン&コメディエンヌが集結!

皆スベらないように必死!」(宣伝チラシの謳い文句)


予想より圧倒的に完成度の高い作品でその点は嬉しい誤算だったんだけど、

うーん、この文句はちょっと違うだろう。


「ライフ・レント」というのは、賃貸物件の斡旋をしている小さな会社である。

ワンマンの社長の思いつきで宴会芸をすることになった女子社員が、会社の管理室に集まっている。

メンバーが揃うのを待ちながらムダ話をする社員たち。

人身事故の影響でか、メンバーの一人がなかなか到着しない。


管理室には、ホワイトボードと机・椅子・固定電話が置かれているだけ。壁に張り紙等も無い。

その舞台の上下を、桃色の線が一本走っていた。

ちょうどマンガに描かれる雷のような形に木材が組まれている。

芝居の展開には一切関係ないんだけど、殺風景な部屋のアクセントになっていて良かった。

演技がドキュメンタリー並みにリアルな一方で、デザイン重視の舞台装置を組んでいるところが好きだ。


入れ替わり立ち代わりするライフ・レントの関係者たちは、基本的にいつも笑っている。

それは正に「当たり障り無く」といった風で、

話の本筋に関係しないたくさんの感情をはらんで、

皆が会社のなかで上手に立ち回っている。確かに、「皆スベらないように必死」だ。


いわゆる「いいセリフ」「泣かせるセリフ」を目いっぱい吐くなんて、恥ずかしいことは誰もしない。

恥ずかしい言葉はセリフではなく、なかなか来ない女子社員の言葉として登場する。

「地球はもう青くない」

彼女から届いた長いメールの文章を、

行き詰った社員たちは宴会芸のネタに使ってみる。

新人社員にメールを音読させ、

その音読に合わせて、わざと歪んだ顔を作りスライム風のモンスターみたいにくねくね踊る社員たち。


やってる本人達も笑うほどのその踊りは、客席で見ていても爆笑モノだった。

だから、笑い声の中から聞こえるメールの文章の断片が怖い。

音読は終始棒読みだけど、

読んでいる新人社員がメールの内容に集中していく様子が窺える。

「地球が青いというのは情報操作」「滅びる」「ゴミ、ゴミ、ゴミ」絶望に満ちた言葉が客席に届く。


爆笑していた口が開いたまま固まって、最後に残ったのは戦慄だった。

コメディっていうけど相当上質なブラックコメディ―。

最後の暗転は、暗転なのに怖くて見ていられなくて目をつぶってしまった。


「最近趣味が変わりました。(中略)

 お陰でウェルメイドコメディと言っていたこの作品も、すっかりブラックコメディに仕上がりました。(後略)」


終演後に、パンフレットに書かれていた演出家の言葉を読んでひっくり返った。

チラシ刷った後に変わったのね。不覚。芝居はナマモノです。

おもしろくて、胸が詰まる

Uフィールド

『森の奥へ』~カフカ『審判』より~

構成・演出:井上弘久

@中野ザ・ポケット


「気をつけたことの一つは、場所を不明確にすること。

日本のようで日本ではない場所、外国のようにも感じるが、特定した外国ではない場所。」

                                            ―当日パンフレット・演出の言葉より


演技や人の名前は西洋風、

でも人々の暮らす町はケータイも普及しているしスポーツクラブもある。

そして町の外れの裁判所と、

その裏にある深い森。


80年代に活躍した「転形劇場」の役者が10年ほど前に結成した、

実力派の劇団である。

十人に満たない劇団員は結成時からほとんど変わっていない。

毎回、

その回の作品に合わせた客演の役者を入れている。

今回は「無機王」の渡辺純一郎や高校生の女の子が出演しているが、

劇団員と客演の人数がほとんど同じなのに、作品のカラーや完成度が揺らがないところがすごい。


Kという名前の男が、突然逮捕された朝から話は始まる。

「なぜ俺が逮捕されるんだ?」というKの質問には誰も答えてくれない。

理不尽だとKは怒って無罪を証明しようとするが、

どうしても、どうあがいても勝ち目を見出せない。


「(支配しているのは)明らかにおかしいシステムなんだけど、

『おかしい』って言った途端その人は連れてかれちゃうっていう。

舞台になってる町っていうのには、そういうイメージがある。」


終演後に上の言葉を役者の一人から聞いたときは、「ああ、北朝鮮みたいな」と返した。

でも今思い返してみて違うと思う。

あれは現代の日本だ。

もちろん世界のどこにもあんな場所は無いんだけれど。


理不尽な裁判所は、特に後半には圧倒的に怖い存在になる。

けど一方でKを追い詰めていくのは、名前の無い群集だ。

マスコミのカメラにとりあえずポーズをとってみたり、

形の無い何かによって簡単にもてはやす対象を変えていく複数の人々。

「あぁこんな人いるよな」と時に笑いをはらんで表現される人々が、世間で脚光を浴びていたKを森の奥へと追い込んでいく。


あまりにも内容が濃すぎるので、芝居の詳しい内容はほとんど説明できない。

ネタバレになってしまうからだ。

一つだけ書こう。

作品の中にくり返し登場する、握手のシーンをぜひ見てほしい。印象的な場面の多い作品だったが、あのシーンが一番胸がきりきりした。

どうしてもどうしても分かり合えない場合というのも確かにある。

それがいたたまれないほど切なくて、泣きたかったけどぎりぎりで泣けなかった。


Uフィールドは舞台上に言いようのない閉塞感をあぶり出した。

この作品は完全にカフカの原作を飲み込んでいる。

ファンタジー売ってます

少年社中

「RIDOLL~廃墟に眠る少年の夢・第一部~」

作・演出:毛利旦宏

@青山円形劇場


『不思議の国のアリス』がベースのちょっとダークなファンタジー。


ルイス・キャロル=ドジスンの生きていた時代から、

十五年前のアリス・リデルの記憶を経由して、

巨大な地下遊園地リドルに舞台が降りていく。


少年社中を見るのは初めてだけど、

『アリス』の話と劇団の作風自体がすごく噛み合っていたように思う。

青山円形劇場だと一番映える劇団、って前評判を聞いていたけどそれも納得。

予想以上に舞台装置が少なくて、

ほとんど役者だけで遊園地を造り上げていたのには感心した。


話の中では、

ドジスンは十五年前に、アリスを殺してしまったことになっている。

そのアリスがリドルの中で生きていると教えられるところから話が始まる。

彼にそれを告げたのはハーグリーヴスという成人女性。

実は彼女こそ、

かつてのアリス・リデルだった。


・・・あれ。

話の説明が終わってしまった。


夢の住人のまま死んでいくドジスンと、成長した姿を受け入れてもらえなかったアリスの悲劇。

それが軸になっているから、

三部作の主人公のはずのクラウドが全然ぱっとしない。

だいたい、

「少年」って謳ってるのにヒゲが似合う顔の男が出てきちゃだめだろー。

意気込みだけで突っ走る騎士見習いって設定だったけど、そんな思慮の浅い顔してなかったぞ。

ミスキャストとは思わない。

俳優に合わせてキャラの設定を変えるのが適切だったと思う。

いいじゃないか、

「少年の心を失ってないベテラン騎士」で。

そのほうがあたしは好きだ。あ、個人の好みが入ってしまった。


病身のイギリス紳士がばっちりはまってたドジスンを始め、

ビジュアル面がすごく世界観に合っていた。

それとシーンを上手につなぐギャグ。そうした要素で、説明からするっと逃げている。

個人的には、

アリスを殺すシーンを最後まで入れて、

その場から逃げ出すドジスンを描いてほしかった。今さっきまでこれに気づかなくて

「アリスの死体とかどうしたんだ?」

って考えてしまっていたから。


脇役として出てくるサーカス団には劇団上田の役者が総出で出演していて、

あ、同じ大学の人脈もきっちり保ってるんだなと思った。

配役のセンスが合理的で、商売人っぽい。

エンターテイメント性と身軽な演出で、これからも順当に成長していく劇団だろう。

(金曜の夜に見に行ったけど、ほぼ満席でした)

ただAfro13の公演 を見た後は、どうも舞台がスカスカなように感じられた。

もう一人ふたり、入るんじゃないの?

二十一世紀の古典演劇

青年団

「S高原から」

作・演出:平田オリザ

@こまばアゴラ劇場


「リアルな演劇」というコピーは知っていたけど、平田オリザ演出の青年団の芝居は今回が初見。

見て、

意外なほど青臭い演出にびっくりした。

確かに台詞は重なるけど、細かく計算されているのだろう、全部よく聞き取れる。

ラストで死ぬ(ように見える)福島とその恋人が、

「死なない?」

「(寝ぼけつつ)死なないよ」

と会話を交わすところなんて、

「あー、この恋人はここを『最後の会話』として美しく思い出すんだろうな」

って感じである。

ばりばりに月曜九時のドラマの切なさだ。これを昔は「リアル」と言ったのか。

大学の演劇の授業で古典劇を見に行ったような気分だった。


それまで「ニセS高原から」を見ていたにも関わらず、

最初のシーンで患者の区別がつかなかった。


他の三作(五反田団のみ見逃しました)では、

新入りで女に振られる村西の方がわりに軽薄で、西岡が泰然とした雰囲気にキャスティングされていた。

「S高原から」になると西岡の方がへらへらしている。

場違いなボケを何度もやったりして、村西に呆れられる役回りだ。


あんまりくっきり違ったので不思議だったんだけど、

終演後にパンフレットの平田オリザの言葉に目を通して、すこし謎が解けた。


「(「ニセS高原から」で)面白いというか、興味深かったのは、西岡という画家の役の取り扱いだった。

そもそもこの芝居は、

1991年、バブルの末期に、20年から30年後の日本社会を前提として書かれている。

この社会では、経済格差が大きく広がっており、このサナトリウムに入院している患者たちは、働かなくてもいい資産家の子供たちだ。」


この話って近未来の話だったんだ。そしてあの患者たち皆ぼんぼんだったんだ。

金持ちの子供たちだと考えると、ちょっとずつ変だった登場人物達の言動もだいぶ納得がいく。

これは、

パンフレットで予備知識を入れてから見る芝居だったのだ。

ますます大学の授業みたいだな。


学生ドリフターズ

とくお組

「インドのちから」

作・演出:徳尾浩司

@池袋シアターグリーン


1995年・印の料理屋と、

2005年・日のインド料理専門店をつないだ話。

二つの料理屋の間を行き来するには、

カシミアターメリックと空飛ぶじゅうたんを使う。


インドは1995年なので、サイババが登場する。

彼はスランプ中で、手品ショーで食いつないでいる。

そのサイババの働く店に、

一人の日本人が見習いで働きに来ている。

その見習いが帰国して作った2005年・日のインド料理専門店で、

評論家に出す料理に入れるためのカシミアターメリックが、

床にこぼれて全滅してしまう。


役者は五人中四人がダブルキャストで、インド人の役のときでも日本語。

いや、そこで違う言葉を話せとは言わないけど、

日本人とインド人の間でもふつーに日本語で話してるところはツッコンじゃいけないんだろうな。


スモークが噴き出す空飛ぶじゅうたんの他、

舞台美術が前回以上に充実していた。

役者が思いっきり遊べる舞台になっている。


台本はひねくれたところが何も無くて、

「カシミアターメリックを嘗めると空が飛べる」っていう約束事も上手いし、

最後は評論家をぎゃふんと言わせてサイババも力を復活させて、

インド人二人がじゅうたんに乗ってインドに帰るところで終わっている。


台詞はギャグか熱血系。

役者の特技を生かす形で話が作られているから、話の中での役回りも似てくる。

ドリフの長編コントに近いかもしれない。五人だし。


全員が団結して一生懸命動き出すクライマックスは爆笑ものなんだけど、

出だしがベタベタのギャグで芝居に入り込むのに時間がかかった。

マイナスの感情を持つ人が出てくるとみんな情熱的なトークで説得しちゃってて、

なんていうか皆アツいよなぁ。

全体の雰囲気がすごく学生ノリだった。


ひねくれ者には物足りないけど、

爽やかでギャグセンスのいい芝居でした。

ジャパニーズ・ドラマティック・パフォーマンス、完成です。

Afro13

「Death of a Samurai」

作・演出:佐々木智弘

@新宿タイニィアリス


さっきから、この芝居の結末が頭を離れない。

すごいものを見た。この作品は芝居とは言えないと言われても仕方がないかもしれない。しかし何にせよすごいという点に関しては、誰も異論は無いはずだ。


ほとんど台詞が無い。歌も無い。舞台装置すら一切無い。

爆音で音楽を流すスピーカーと、踊り、殺陣。一時間ちょっとの作品の殆どはこれで占められている。


「日本のマンガ、アニメなどのサブカルチャーとシェイクスピアを融合」


という宣伝文句の通り、

立ち回りや場面転換などの随所にアニメからの影響が見て取れる。


不老不死を与えられる姫を軸にした話は勇者ものの典型だが、

森の妖精の魔法で皆が恋に落ちてしまうところは「真夏の夜の夢」だし、

悲劇的なラストは「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」のラストを、

キスした相手に不老不死を与えるという姫のキャラ設定でもう一ひねり。

分かり易い、おもしろいというだけで終わらない作品に仕上がっている。


特撮を駆使してもアニメの実写版は不自然になってしまうのに、

この作品は全ての演出を人力で行うことで逆に非常に自然にしている。

もちろん役者の身体能力も高いし、

感情が動くのに充分な間をとってダンスが構成されていた。

これは、芝居と言うより総合芸術と言ったほうがふさわしいかもしれない。

どこかに分類できないから演劇のジャンルに放り込まれたような、非常に稀有な作品だ。


一緒に死ぬこともできない結末は、予想のつくものではあったがショックだった。

作中何度となく悲しみに叫ぶ登場人物達の声が、今も耳について離れない。


あー、海外でもどこでも通じるのはこういう作品なんだなぁと思う。

西洋の真似事なんて見たくないのだ。

長い消化期間を終えて、日本版・近代演劇がやっと完成したのかもしれない。


初日が終わって、日曜日までであと六回公演。

普段は芝居が終わってもずっと残るレビューなので避けていたが、

今回は宣伝しよう。ぜひ見に行ってください。

手塚治虫の「火の鳥 未来編」にも似て、忘れることの出来ない作品になるだろう。


Afro13

謳いあげるよりも感じてください

劇団アランサムセ

「アベ博士の心電図」

作:朴 成徳 演出:金 正浩

@新宿タイニィアリス

高校の文化祭のようだと思った。

運動部の生徒たちは文化祭になると困るし楽しむ。文化部と違って、露店をやったりお化け屋敷をやっても許されるからだ。ふだんから文化的な活動をしているところは催し物が限定されてしまう。

朝鮮高校のバレー部の人達は、劇をやることにした。

十五年前に起こった事件を基にした劇を。


心臓外科の権威であるアベ博士が、

記憶喪失に陥った少女を利用して人の脳を支配しようとする。

彼女は一九九〇年に起こった、朝鮮高校がインターハイを辞退させられた一件の「過去」であった。

少女は権利を乞うのをやめ、自らを誇ることで博士から逃れようとする。


博士の目論見がいまいち定まっていない。

「国家的なプロジェクト」だと言ったり「人工脳を作る」と言ったり、要するに少女をどうしたいのかが見えてこなかったのが残念だ。

情熱的な長ゼリフが多かった。伝えようとしてつい沢山喋り過ぎてしまったような印象を受ける。

結成十六年になる劇団だそうだ。

チラシには「全て日本語で上演します」と書かれている。

元々は全部ハングル語のセリフで、もっとシュプレヒコールに近い内容だったらしい。作品の傾向が変わることに反発を覚える人達も少なくないようだ。

友人知人でなくても面白がれるような芝居を創りたいという願いが、劇団の歴史に足を取られている。

今回の公演の中でも、バレー部のインターハイ出場禁止という形でその構図が出てきた。

個人的な話になるけど、平和をテーマにした区のミュージカルなどに、少しの間携わっていた。

だからアリス・インタビュー で脚本家が語ったことは何だか身に迫って感じられる。

共感はシュプレヒコールからは生まれない。観客の内側から湧いてくる気持ちに、外からの訴えかけは負けてしまう。

在日朝鮮人の苦悩を完全に理解するなんて絶対に日本人には無理だろう。

どんなに仲良しな二人の個人の間だって、限度のあることだと思う。

わからないから日本はとりあえず謝り続けるしかないし、わかってもらえていないと感じるから朝鮮半島の人達は怒る。

だが、喪失感なら少しはわかる。

自分を見失うことへの恐怖、理不尽に可能性を断たれたことへの怒りや悲しみなら理解できる。

アベ博士のマッドっぷりや沢山の歴史の情報の陰に埋もれてしまった感情をこそ、主軸にすえるべきだったように思う。


障害は多いだろうが、そのことを特別に考慮することはできない。ナショナリズムが関係しているという点を除けば、方向性でもめている劇団は沢山ある。

ただ、歴史が苦手な十代の日本人として、現在のアランサムセの方向性は正しいと思う。

迎合する必要はない、もっと日本の芝居を盗んでください。今まで感じてきたことを、もっと沢山の人々に伝えてほしい。