おはしょり稽古 -4ページ目

ひとり芝居ができるということ

SOMA組

「SOMA THE BEST」

作:早馬瑞陽・本間商事・下山リョウ・後藤博之・藤田亜希

演出:早馬瑞陽

@しもきた空間リバティ


ひとり芝居、と聞いて何を連想するだろうか。筆者は腹話術を連想した。

パントマイム、或いは「エンタの神様!」などに登場するどの芸人にも、SOMA組のひとり芝居は似ていない。ひとり芝居、という感じも観ていて起きない。オーソドックスな会話劇がメインの、紛れもない正統派演劇だ。


「TOKYO LADIES XIII」には、五人の女性が登場する。引きこもりの一人息子を持つ母親、営業マンのOL、志敗れて不登校になってしまった高校教師、出会い系に登録している女子高生、そして四人が居合わせたハーブティーの美味しい喫茶店に勤める、ウェイトレス。

高校教師はPTSDで、高校生に話しかけると発作が起きる(精神治療を受けて多少軽減はしている)。

班の班長を務めるOLは、後輩の男子社員とうっかり寝てしまって気まずい。

ロンタイのノースリーブのドレスだけで、SOMAさんは五人を演じ分ける。衣装を変えたり一切しないし、声優のレッスンを受けた経験があるから無理に声色を変えたりしない。舞台には椅子の代わりのブロックが四つだけだけど、ウェイトレスは同じ高さの机に正確に伝票を置く。

些細なきっかけで話すことになった四人は、やがてお互いの状況を打ち明けるようになる。たまに照明が変わって一人が客席に向かって語ったりして、間延びしないような造りに仕上がっている。

軽妙で、殆ど笑いっぱなしに笑える。なのに文章にしようとして舞台を思い出すと、優しい雰囲気に今更のように気づいて涙が出てきそうだ。SOMA組の芝居は総じて暖かく終わるものが多い。そのくせブラックな要素もあって本当に不思議な芝居だ。

上に挙げた「TOKYO LADIES XIII」にもちょっとブラックな笑いがあるが、SF物の短編には毎回、胸を衝かれるようだ。

「THE EDGE」では、三人の少年たちの会話から三人の暮らす未来都市の全貌が浮かび上がってくる。これも装置は殆ど無く、SOMAさんの服装も「すごいよ!マサルさん」の花中島マサルのように肩に輪っかがはまっていたりしない。何も無いから逆に、生身の人間の体を持った三人の「常識」がくっきり届く。風が吹く大地でのラストには本当に救われる思いがした。


甘えが全然無い人だな、と思う。

どんな人間にでも(稀に蚊とかカエルとか悪魔になったりもするが)なれる人の素顔は、だいたい素直であることが多い。偏見やコンプレックスを昇華して何かを表現できる人は、天才ではないにしても紛れもなくプロだ。そして天才でない人の方が面白い場合もよくある。

チケットノルマ、公演日、演目の決定や稽古等、ひとり芝居には上からの押しつけが一切無い。「役者しかできない」人間には不可能な芸当だ。個人的な経歴などは殆ど存じ上げないのだが、凛として底無しに素直な人のように、何となく思える。

芝居の技量もさることながら、そんなSOMAさん自身に知らず皆惹かれていくのだろう。


小劇場演劇に片足を突っ込んでから知ったかぶりしたくて色々な芝居を観てきたが、このSOMA組は唯一、本気でファンになった劇団である。

ファンになってしまったので何となくレビューを書きにくかったのだが、ライターの三上その子さんが「詩学」六月号に掲載した舞台評を読んだこともあって拙いながら今回書いてみた。(だから少し三上さんの文章の影響も受けてしまっている)

彼女のすごさがもっと伝わればいいと思うけど、公演日数がすごく増えたりしたら、一つしか無い体が心配だなぁ。

横浜・下ネタ学生同盟

柿食う客

「多い日も安心」

作・演出:中屋敷法仁

@桜美林大学・PRANUS HALL


よくもまぁ五十七人も舞台に乗せたものだ。しかも意味の無い役が殆どいない。


演出の中屋敷法仁さんは、高校時代、第35回東北地区高等学校演劇合同発表会で最優秀賞と創作脚本賞を奪取している。当時の評論でしか、現役の高校生たちにセンセーショナルな驚きを与えたことは確かなようだ。一部ではカリスマとの声も上がっている。


「多い日も安心」―――AV女優・始皇帝サラサーティを君主にもつソフト・秦・デマンドの横暴。AV監督平田ハウルと、生理痛の重い「伝説のAVクイーン」及川ソフィーが権力に立ち向かう、壮大な冒険活劇。


五十七人を下ネタでつなぎ止める。カリスマ大学生でなければ不可能なことだ。それとも、下ネタの持つ威力のすごさなのだろうか。

秦の栄枯盛衰と、「ハウルの動く城」と「もののけ姫」と平田オリザと北朝鮮と二十四時間テレビが混ざった構成になっている。全編乾いた笑いでぎっしり、微塵も泣かせようとしていない辺りがかっこいい。

派手な動きとセリフ、そして初登場時に観客に向かって自己紹介。芝居の雰囲気に合った演技でとてもよかったけど、あれもひょっとして「静かな演劇」を茶化していたんだろうか。

劇団で言えばひょっとこ乱舞、作品全体はTEAM発砲B-GINのノリだ。劇団☆新感線が好きな人もハマるかもしれないが、意外にB.G.M.は少ない。


徹底してセックスのことしか考えてない登場人物たちが可笑しい。お前ら食うとか寝るとかあるだろう、というツッコミを一切許さない会話に笑った。

市民ミュージカルが盛んな横浜の学生ということもあってか、役者が皆バランス感覚に優れている。ともすれば観客が引いてしまいかねないシーンも、役者のセンスで上手く乗り切っていた。


平田ハウルと「伝説のAVクイーン」の存在を恐れるサラサーティは、テレビ局から企画として持ち込まれた「二十四時間テレビ」の出演を承諾する。二十四時間以上サラサーティ様のセックスを生放送で放映する、という過酷な企画だ。

(ソフト・秦・デマンドの人間はサラサーティ様以外に対して勃起してはいけないことになっている)

その頃、及川ソフィーは魔法で老婆にされてしまい、また自分の気持ちが邪魔をしていることによって元に戻れずにいた。彼女は生理痛が酷く、年をとったことでその悩みから解消されたことを喜んでいたのだ。筆者未見の「ハウルの動く城」、筋がばっちり分かって感激もひとしおである。

そんなソフィーを救うのが、下半身研究所開発の生理用品である。研究所の新製品はサラサーティのみが使えるのだが、

「みんなのために生理用品を役立てたい」

と言う研究員の協力で、密かに開発されたナプキンはAVレーベル・性年団の手に渡る。もちろん平田ハウルが監督を務めるレーベルのことだ。

番組放映開始直後、二十四時間テレビを性年団がジャック。平田ハウルに新製品を手渡されたソフィーは、ナプキンをばりばり開いて言う。

「これで、多い日も安・心・ね―!!」


平田ハウルと及川ソフィーのラブシーン放映(舞台上では二人がゆっくり踊っている)。感動したサラサーティはソフト・秦・デマンドの権力放棄を宣言、そして全員で「サライ」の大合唱。もちろん、ナプキンで生理痛は解決しねーよ、というツッコミは誰もしない。

ちなみに、「安・心・ねー!!」でソフィーはゆっくり曲げていた腰を伸ばす。ポケモンの進化みたいである。


終わるかな、と思ったところでエピローグが二つ入った。

全てが終わって「さあ、城に帰っていっぱいセックスしよう!」というところで、なんと性年団は二人組の行商人に皆殺しにされてしまう。更に、AV女優サラサーティの「現実世界」での会話。タレントに転向する・しない等の話があって、

「世界征服・・・してみないか?」

というサラサーティの台詞で終わり。

やっぱり最後まで乾いたギャグを押し通すのは恥ずかしかったのかもしれない。すぐに楽屋ノリのアフタートークに入ったところを見ても、きっと観客に対して自分が変態扱いされるのが嫌だったんだろう。ストイックになり切れない辺りも含めて、きっちり学生演劇だったように思う。

「下ネタは国境を越える」と主張する中屋敷さんの、そして「柿食う客」の活躍が楽しみである。

どうしてもオヤジみたいな文章になってしまう


鳳劇団

「昭和元禄桃尻姉妹」

作・演出:鳳いく太

@新宿タイニィアリス


そういえばこれ、二人芝居である。女優二人が演じる、一時間四十五分ぐらいの芝居。

その二時間足らずの中にいろんなものが、ぎっしりではなくジュクジュクに詰まっている。あたかも熟れて弾けそうな桃のように・・・・・・・・・・と気持ち悪い文章になってしまうけど、そういう、ジューシーな話だ。


垂れ幕を女優二人が蹴り飛ばして、素の舞台でかっぽれが始まる。不勉強にして初めて観たのだが、

「かっぽれかっぽれ!」

と言っているから曲はかっぽれで間違いないはずだ。娘二人として踊って、男女の面を付けて農民の恋愛を踊る。やらしい踊りだなぁ、と思っていると暗転。

「・・・・・それは、七つのときに神隠しに遭った、双子の姉からの手紙でした・・・・・」

雑音の多い古いラジオから女優の声が流れてくる。


若い女客のシルサが、一人で旅館らしきところにいる。かぢゅよ演じる仲居さんは、手の震えが全身にきているような大婆さんだ。かたかた急須を鳴らしながら、女客に温泉の効果なんかを話しかける。ときたま女客を耳鳴りが襲う。

「あら仲居さんも東京の人なの?」

「えぇそりゃあもう、あたしは東京は深川で生まれました。」

「ほんとに?」

「あら、お客さんお近くですか?」

「お近くも何も、あたしも東京の深川で育ったのよ。」

小学校の頃はあの辺りで遊んだ、空き地があって、私は妹の手を引いて行った、妹はいやだいやだと言って・・・・・・・・・・・右の耳が悪い妹の話。双子の姉を捜しに来たという女客の前に、赤い糸の糸電話が現れる。


耳鳴りがひどい女客に、糸電話の向こうから幼い声でかぢゅよが呼びかける。


「もしもし、透明人間になれるのと空を飛べるのとどっちがいい?」「人間のような人形になるのと、人形のような人間になるのとどっちがいい?」「人間に生まれるのと不死鳥に生まれるのと、どっちがいい?」


 不死鳥、で手塚治虫を連想した。東京・深川、ピンクレディーの「UFO」、ブリッジ音楽に吉田拓郎。「人間のような人形」になる二人は戦時中の学生服を着ている。スーツに禿げカツラの「人形のような人間」二人からは、酒気とともに昭和の話があふれ出てくる。

簡単な手品から堂に入った舞いまで、衣装を次々変えながら二人は踊る。無色のシルサにかぢゅよが色をつけていく形で、時代も場所も不確かなまま話が折り重なっていく。糸電話を目に当てて、姉妹は何かを覗く。

「もしもし、もしもあの戦争が無かったら、あたしたちはどうなっていたと思う?」


ラスト、最初の旅館に戻った舞台で二人の役割は逆転している。シルサは仲居さんと会話したのに対し、かぢゅよは仲居さんの目には見えない。

「あぁ―、気をつけろっておかみさんに注意されていたのに―」「声はすれども姿が見えないなんて―」

かぢゅよと同じように大げさに、黒縁丸眼鏡のシルサが新入りの仲居さんを演じる。相手の姿が見えないから大げさな一人芝居で、昔そこの川で溺れて死んだ女の子を下手くそにやってみせる。

一人になったかぢゅよが何かに気づいて愕然とした瞬間、笑って観ていた一人芝居から恐怖が現れる。


「何を言ってるの?聞こえない、耳鳴りがひどくて。」

「耳鳴りがするのはどっちの耳?」

「右に決まってるでしょ?」

「じゃあ、聞こえるのは右耳じゃないの?」

「・・・え・・・?」


交互に姉妹は問いかけるが、どちらも問いには答えられない。役割を次々入れ替えていく二人が、ままごとをしているように見えた。七つで別れ別れになった双子の時間は、少なくとも二人の時はそこで止まっているのだろう。最初に舞台を隠していた白い垂れ幕にも、クレヨンのようなもので落書きがいっぱい描かれていた。


今回で四度目の再演。踊る曲などを変えて、毎回多少異なった演出を設けているとのことだ。


甘くてアクで舌が痺れて、桃だか娘だかはわからないがとにかくジューシーである。必見。

若々しさ満開です

とくお組 

「マンション男爵」

作・演出:徳尾浩司

@渋谷LE DECO


 開演前から出演者が舞台上で生活している。
 舞台、と言っても観客席との間に段差は無い。公演場所は奥にパネルで袖が設置されているだけのマンションの一室、中央のテーブルについた五人の青年を囲む形に客席は設置されている。
 五人とも各々好き勝手に行動している。全員が正装していることを除けば、活動が停滞しているサークルの部室だ。
 開演前の余興は五人の中で喧嘩が始まり、「これで終わりにしよう」とリーダーが言い出すところで終わる。壁のスクリーンにタイトルが映し出されて明かりが戻ると、余興の終わりの状態から本編が始まる。

 「男爵」「公爵」とお互いを呼び合うこの五人は、どうやら悩み相談を請け負っているらしい。恋愛相談を持ちかけてきた男に対して様々な方法で手を貸すが、元々成就の見込みが薄い上に、メンバーの連携が取れていないので順調に行かない。
 五人はそれぞれ得意分野を持っているが(七人の小人みたいだ)、オチ担当としてポテト男爵という人物がいる。彼の専門は「占い」だ。他の人間がやけに優秀なのと対照的に、場の空気が読めず、浅はかな言動で事態を悪化させる。

 しかし残りの四人、随分何でもできるように見えるけど一体何歳なんだろう。他人を語って電話をかけるスネーク男爵は(ポテト男爵によると彼は「ネゴシエーター」らしいが)オレオレ詐欺や昔の代返技術に通じるもので学生でもできるし、通信技術が発達しているから、プロジェクター操作や逆探知ができるクロコダイル男爵も学生で通用するかもしれない。
 となると一番不思議なのは、相談者のために「上下豹柄」の服を持ってきたタイガー男爵である。どこでそんなものを。


 出演する役者を決めてから台本を書くことを「あて書き」と言うけど、今回のとくお組の公演は劇場版「あて書き」かもしれない。観客と同じドアから相談者は入り、クロコダイル男爵はベランダに通じる扉から外に出て、パソコンで相手の女の子の居場所を特定する。
「いました!」
「どこだ!」
「向かいのスターバックスコーヒーです!」

 この辺のやり取りは学園モノの学生劇団のノリだ。「マンション男爵」のすごい所はこの場所いじりを徹底させて、最後は実際に役者をスタバまで往復させてしまったところだ。(といっても真意は観客には分からないのだが)
 終盤は特に学生臭いギャグの連発で、面白かったけど笑えなくて困ったところもあった。居場所特定のアンテナがフライパン…………いきなりそうくるのか、と少し思った。
 三谷幸喜の書く話が好きな人だったら、この芝居も好きだろうなと思う。前作は「まるっきり違う感じ(の作品)だった」と劇評サイトWonderlandの北嶋孝さんも仰っていたし、次回公演に向けてワークショップオーディションも開催するらしい。外部の人間が入団して、今後どんな芝居を見せてくれるだろうか。

技術は確かだが「未完」の作品

乞局(こつぼね)

「耽餌(たぬび」

作・演出:下西啓正

@王子小劇場


褒め言葉ばかり考えながら開演を待っていたから、終演後は少しの間唖然としてしまった。


犯罪者と寝食を共にすることで、犯罪者の再犯防止と社会復帰を図る「付き人制度」が導入された日本。
古い寮に、服役して出所したヌエ(女)と、その付き人を担当するワカハシ(男)が越してくる。ヌエは昔新生児室で赤ん坊を殺しており、ワカハシは今回初めて付き人の仕事に就く。
寮には双方タクシー運転手の元夫婦や、中学校の女教師が住んでいる。寮の食事を担当しているのは二人の男性調理師。


乞局の芝居は人間関係が粘っこい。糸が過去からずるずる伸びてきて、絡まり合って日常を構成している。

作中人物たちを見ていると、会話の間、目が殆ど笑わない。愛想笑いと拒絶でできた世界を恐怖が突き抜けて終わる感じ、視覚以外の感覚に訴えてくる演出が好きだ。田舎のお化け屋敷に似ているかもしれない。かなり贔屓にしてる劇団である。

だからがっかり。そう、がっかりって言いたかったんですね。個人的には大変期待外れでした。


寮という場所柄、ヌエや付き人以外の人間も住んでいる。様々な目的で住人を訪ねてくる人間がいる。
同じ目的で全員が共に活動することがない分、本作品では粘ついた会話が醗酵しない。いつ醗酵するのかなと思って観ていたら、くしゃっと崩れて終わってしまった。個人的な予測だが、題材を盛り込みすぎて半端に完結してしまい、書き直すに書き直せなくなってしまったのではないだろうか。

今公演の分のエピソードで三本ぐらいは芝居が創れそうだ。創れるだろう。創って。下西さん。


贔屓の劇団なので、この作品は人に薦めたくない。公開稽古なら許せもしただろうが、乞局だったらもっと出来る。

せっかく解散するんだし

劇団Stoicstick

「さよならストイックスティック店じまい公演 芝居をなめるな!」

作・演出:浜田昭彦

@新宿タイニィアリス


新宿タイニィアリスで、ひとつの劇団が解散公演を迎えた。
店じまい、という理由でか、小劇場劇団の稽古を題材にしている。

学生演劇などの大きなジャンルの一つに「演劇部ネタ」があるが、その延長線上のものだ。最後だからこそ使えるネタではある。


芝居に限らずイベントの稽古や準備は、全体の士気が低下していると大変重苦しい。倦怠感がスモッグになって練習場に溜まっていく。

脚本・演出が突然退団した「劇団ストックステップ」の団員は、新しく演出家としてやって来た胡散臭い男性に振り回される。元はコメディ劇団なのに古典劇をやることになってしまっているし、やたらに「芝居をなめるな!」と連発される。団員の一人は演出の一存で役をもらえなくなった。
劇団員の不満がつのっていく前半の展開は、客席まで倦怠感スモッグが立ち込めてきて結構辛い。元ネタが近いせいもあって、妙な点がリアルだ。

演技の仕方や台詞構成も中学生演劇のライン上にあるし、場転の仕方が一定なのも退屈の要因だ。この倦怠感を二場三場と引きずるのは辛い。

後半、演出家の意向で、勝手に客演の役者が呼ばれるあたりから、ゆっくり話は面白くなる。コメディに対して嫌悪感を隠さない新劇の役者のほか、ミュージカル・時代劇・オペラ・アングラの劇団から一人ずつ。
いずれも各ジャンルの特徴を人間にしたような役者達で、特にアングラの役者は適度に偏見が混ざっていて面白かった。彼女の役は「森」

劇団員に降板させられた演出家は芝居未経験の愛妻を後釜に据えてしまうが、「お芝居は観てばっかり」の妻の意見が稽古を活気づかせていく。観客の率直な意見の大切さをさりげなく織り込んでいて、妙にはっとさせられた。


稽古に熱が入って高揚していく感じ、終演後の観客との一体感などまで殆ど芝居の魅力を網羅している。役者が生き生きと動き出す後半は、俄然舞台に惹きつけられる。
小劇場演劇版「演劇部ネタ」は、これでほぼ書き尽くされた感があった。劇団自体の解散公演、というのも、作品の魅力を増していたと思う。

劇団オリジナルの狂気が欲しい

OrangePumPKing

「見つかりにくい温室」

作:足利彩 演出:宇原智茂

@中野ウエストエンドスタジオ



東京○×カンパニーでのプロデュース公演を皮切りに今回で四度目の公演になるが、とても好きな劇団で、第三回公演を除いて全部観に行っている。


花と俊雄(としお)が何気なく入ってしまった洞窟は本であふれていて、二人はそこで一人の少年に出会う。名前の無い少年は「これから帰る」という二人に対して、「出られるんだ」と驚く。出ようとした二人は出口が見つからないことに気づく。部屋の中を彷徨ううちに、二人は男女の一団に出会う。


様々な恰好をした男女の一団が狂騒的にはしゃぐシーンは妙に印象的だ。少年を交えて「お葬式ごっこ」をしているのだが、一人マイペースな少年の発言に戸惑いつつも、皆は軽いノリを保ち続けようと笑い続ける。笑っていてふと相手に話しかけようとすると、相手の名前が思い出せない。
花が男女の一人を幼馴染と勘違いして

「ユウコ!」

と呼んだ途端、呼ばれた女の子は「ユウコ」の人格になってしまう。


最初は「こいつ人の名前忘れたぜ」で笑い飛ばされていた話が、実は「誰もが誰のことも知らない」「そもそも自分が誰なのか分からない」のだと観客に示されていく手法はなかなか効果的で、目新しい粗筋ではないがどきどきした。


少年の孤独を癒すためだけに創られた男女は、花と俊雄に名前を与えられて出口を見つける。喜んで出て行く複数の元・人形と裏腹に、黙り込んでしまう一群。
花は俊雄を待たせて少年を呼びに行くが、俊雄は一部の元・人形達に温室の奥に連れて行かれてしまう。外に出て行った花と少年を、人形だった男が一人見送る。照明が変わると男の左腕に血。


作品の系統が少し変わった。

国籍や時代が不特定だった前作までの世界観と違って、今回は明らかに現代の日本が舞台だ。登場人物の名前や「バイト」「飲み会」などの単語からそれが分かる。話もよりストレートな展開になったが、ラストの唐突な不条理さは健在だ。完全な空想世界でない分、勢いで押し切りきれなくなっている。温室の草花が「出られない」のだという絶望感は伝わりきらなかったのは、外に出た後の元・人形達や連れ去られた俊雄の末路が無かったせいでもあると思う。


OrangePumPKingは、役者の音感やリズム感をフルに生かして話を創る。少年の孤独を癒すためだけに創られた男女が、無表情でジンギスカンを踊る様子は怖い。

十八番がある劇団なので、次回作に期待する。大きな嘘をついてほしいものだ。

関西に粋なおっちゃんがいる

劇団犯罪友の会

「手の紙」

作・演出:武田一度

@新宿タイニィアリス



(前略)「野外でやると割りに演技がオーバーになる。

でもね、そうじゃなくて、手をこう挙げただけで意味を持たせる小劇場の緻密さと、野外でのオーバーなアクションをどう融合さしていくか。これは絶対必要ですね。

不可能だといわれているけど、野外劇でブレヒトやテネシー・ウイリアムズはできると思ってるんですわ。まだみな、やってないだけ。絶対できると思ってます。」

新宿タイニィアリス主催のインタビューの中に、演出家の武田一度さんのこんな発言が載っている。
大阪を拠点に活動している「劇団犯罪友の会」は、毎年秋に野外劇を上演している。

1800本ほどの丸太を使った劇場を、公演のために造ってしまうのだそうだ。三層構造で客席は四階建て。天井は無い。
当然、小劇場出身の劇団と比べると圧倒的に役者の芝居は大きい。笑いをとってもいい脇役の演技は特にそうだ。野外劇の特性を取り込みつつ、主役陣の抑えた演技で小劇場サイズの作品に仕立て上げている。

終戦後の日本で、三無事件という旧軍人の反乱があった。・・・と、いう時代背景はインタビュー記事を読んで初めて知った。芝居の中で描き出されているのは関西の片隅に居を構える食堂だ。標準語を喋る男性が一人で経営していて、ある日そこに一人の女性が来訪する。

「エンターテインメントにしますから、三無事件は背景としてあまり表に出さない。

(中略)造船所の社長秘書だったけど戦後は東京・深川の芸者になって会いに来た人。ちょっと粋なこの人との恋愛がメーンなんです。

結構ね、男の純愛物語のような気がしますけど。(後略)」

ちょっと粋なこの女性は実は再婚の予定がある。そのことを告げに今日は来たと言う。手も握ったことのない二人の過去に、歴史が深く絡んでいる。
「十年、何も無かった。これからの十年も何も無いでしょう。何も無いということが、一番なんです。」
そう語る男の元に、歴史を背負った人達が訪ねてくる。旧内務省の役人、反乱を企てる元軍人。男はもう戦う気は無い。だが、敢然と過去を拒むこともできない。
「ここで、ハエを撃墜しながらずっと考えてたんです・・・あれが正しかったのか。そのうち、考えるのやめました。答えが見つからないから。」


ラスト、死んだ人の絵ばかり描いていたノートを男は破り捨て、帰りのバス停に向かう女性を追う。 後には男に想いを寄せていた女学生と、その女学生が好きなシンナー中毒の青年が残される。

一つの愛が成就する予感を、二人の人間の失望に換えて芝居は終わる。何が正しいのか、最後まで誰にも分からない。


冒頭のインタビュー内容からも分かるように、「野外劇=アバンギャルド」という路線を崩すことを武田一度さんは目指しているようだ。
「(前略)われわれは百姓というか、農耕民族みたいなもんやから、劇場を造って、店とか屋台も出ますねん。

お祭りになればいいというのが最終目標なんですよ。そのためには芝居をきちっとつくらなあかん。(後略)」
ブレヒトが観られるお祭り。

いいなぁ。楽しみ。

伝えたいから人は創る

starngeGARDEN

「マイン‘05」

作・演出:佐藤隆輔

@アイピット目白


奇跡のような舞台だった。と言っても、褒めるところは見つからない。

皆ものすごく下手だ。役者の演技で言ったら早稲田大学の『マグロ』出演陣の方が圧倒的に上だし、それを補うためか舞台効果も過剰。冒頭のダンスに芝居が負けている。
台本・演出は中学校の演劇大会でよく見かけるような代物。ご都合主義と矛盾がぽろぽろ出てくるし、内輪ネタも多い。前半一時間は退屈して、時計を見てしまった。


もし話の題材が「ダメ人間最後の戦い」(チラシより)でなかったら、きっと自分は鼻も引っ掛けなかったと思う。

集団自殺を計画した人間たちがネットを通じて一箇所に集まってきたが、どうにも上手くいかない。

喜劇も悲劇も飽きるほど書かれたこの設定で、演出家はただただ「生きていこう」と呼びかけている。

それまでの話の展開や辻褄なんかどうでもいいのでギャグで流しました、という感じすらある。直球極まりない台詞をつっかえつっかえ言う役者が、その演出家の切実さとあいまって、だんだん妙にリアルに感じられてくるのだ。


拙いギャグの連発で油断していると、つい観客は直球攻撃にやられる。

クライマックスを盛り上げるために、皆が何でもする。ドナーカードを千枚ぐらい降らせたり、後ろの障子を突き破って手を無数に出したり(その手に関しては誰も何も触れないところが可笑しい)。

各々が均等に技量不足という点も上手くかみ合って、割れ鍋に綴じ蓋的なハーモニーが生まれている。

前半のギャグの一つは、クライマックスにもう一度繰り返される。
痛々しいからではなく、正に中学生のようなひたむきな情熱に圧されてつい応援してしまう。切実なメッセージがあるということは表現活動で一番の原動力だと、久々に再確認した。
ダメ人間と自分を自覚する人が多い中で、この話は支持され続けるだろう。そういう意味でこれは奇跡のような舞台だ。
「死にたい僕が、どうしてだかあなたに生きててほしいんです!!」
こんな風に言われたら、ダメ人間としては泣くしかない。

「実は頭いい」のが一番かっこいい

bird's-eye-view

「un_titled」

作・演出:内籐達也

@こまばアゴラ劇場



これはすごい。役者として参加したくなった芝居は久しぶりだ。


一つの大きな話は展開されず、場面ごとに暗黙のルールを持って寸劇が演じられる。

質問されたら必ず否定しなくてはいけなかったり、相部屋の住人は「いないこと」にして生活する世界の中で、七転八倒する役者。

「もうお父さんは会社に行くぞ!」

「え、お父さん会社に行くの?」

「・・・いいや。会社には行かない。」

「お母さんは、僕らの名前を呼んでたよね?」

「・・・いいや。あなたたちの名前を呼んではいない。」

「私たちの名前、おぼえてるよね?」

「・・・いいや。あなたたちの名前を、覚えてはいない。」

「もういい加減遅刻するから行かせてくれ!」
「お父さんそこは玄関なの?」

「・・・いいやぁ?ここは玄関じゃない。」

「お母さんは私たちのお母さんよね?」

「・・・いいや、あなたたちのお母さんではない。あなたたちは私の子どもよね?」

「・・・いいや。あなたの子どもではない。」

「おい誰か玄関を教えてくれ!」

ひさびさに爆笑した。


日常の一連の動作をダンスのように見せたりもする。特別各々のマイムが上手いわけではないのだが、時間差で何人も同じように動くことで映像的なかっこよさが生まれていた。

自分の存在を家族に忘れられてしまったり、「概念としての鏡」が出てくる場面は安部公房を連想させる。問いを否定していくうちに確実な事実はなくなってしまう。

最後、照明が変わると、マジックミラーだと思っていた背景の鏡が透けて、後ろに無数の合わせ鏡が見える。観客の思い込みまで覆す、この話の軸は「実存」じゃないだろうか。そう考えるとこのタイトルは秀逸である。


即興劇の臨場感も映像作品の魅力も味わえる。いいもの観ました。