原作のまんま再演してどうするんじゃい | おはしょり稽古

原作のまんま再演してどうするんじゃい

俳優座

「サムワン」

@俳優座劇場


レバノンに来ていたアメリカ人とアイルランド人とイギリス人が、

拉致されて一つの地下牢で暮らす。

去年ぐらいに早稲田大学で書かれていそうな粗筋だが、

アイルランドの古典演劇なんだそうだ。


舞台は第二次大戦中。

と言っても戦時中という状況設定はさほど生かされていず、

話はむしろ


『極限状況にアメリカ人とアイルランド人とイギリス人が置かれるとどうなるか』


というシチュエーション・コメディに近い。

ぴんと来ない人は

『静岡県民と大阪府民と東京都民』に置き換えてみると分かり易いと思う。

要するに

基本的には同じ言葉を使いながらもそれぞれに出身地の訛りで喋り、

生活環境が異なっていて

アイルランド人とイギリス人(大阪府民と東京都民)は一般的に相容れないというイメージが強い。


日本と違うのは

アイルランド人が長い間イギリスの植民地同然だったことと、

イギリス人が自国の英語に対して

大変なプライドを持っているということだろうか。


何かにつけて諍いを起こす両者をアメリカ人のアダムが「いい加減にしろ!」と怒鳴りつけ、

一方でアダム自身は生命の危機に怯えている。

そして後半にアダムが殺されると、両者は徐々に励まし合うようになる。


役者の演技でもって状況の厳しさをそれなりに表現してはいたものの、

登場人物の描き方は画一的で

職業も医者・ジャーナリスト・教師と「近代社会の代表的職業」という印象が否めない。


確かにヨーロッパの百姓が大戦中にレバノンにやってくるとは考えにくいが、

「奴ら俺のケツに油を塗って死ぬまで犯すんだ!」

というアダムの発言を聞いて、

いくら石油大国だからって本当にそんなことしたのかと考えてしまった。


あたしの知識不足もあるんだろうが、なんだか

「名古屋人のオカマはローションの代わりに味噌を使う」って感じに聞こえませんか。

当時の欧米人や作者の偏見が、

台詞のはしばしに現れていたように思う。


要するに、レバノンを舞台にしつつも作者はイスラム社会なんか見ちゃいない。

描かれているのは自分の国のことと、

目と鼻の先にある因縁のライバルのこと。


アイルランド人のエドワードは

イギリス人に励まされてアダムの死を乗り越える。

ラストシーンでは


「あんたは俺が今まで出会った中で一番強い男だ」

なんてイギリス人を激励するんだけど、

言いながら1人で釈放される。

釈放される理由は、連合国のイギリスと違ってアイルランドは中立国だから。


地下牢の中に1人で取り残されるのがイギリス人である他、

「ユーモアの分からないイギリス人」を象徴するようなシーンもあり、

原作者の郷土愛を端々に感じた。


ホリプロと日本テレビがバックについているということで、

舞台装置はかなり充実。

人が乗れるほどの天井を備えた石牢を造り、

天井に空けられた穴からは頑丈な梯子の一端が覗いている。


ラストシーンでは

この梯子が勢い良く降りてくるという大仕掛け。

壁に鎖の影絵が映し出されるシーンがあったり、

かなり美術は凝っていた。


だけど暗転の単調さは引っかかる。

二時間十五分の芝居で暗転が五回以上、

しかも場つなぎの曲に変化なし。

暗転削ったら上演時間も短くなったんではないかとつい勘繰ってしまう。


総じて言うと、

「もうちょっと工夫せいや、演出」ってところでしょうか。

金をかけなくてもできることが

もっといっぱいあるぞ。


「サムワン」からは、もっと沢山の意味が引っ張り出せると思う。

拉致事件を連想する人も少なくないだろう。

イギリス人だアイルランド人だ言うのもいいけど、

作品の深みを役者の演技力だけに頼っていちゃいけないんでないの。


個人的には、

極限状況で一番強いのはどんな人間か、というドキュメンタリーとして楽しんだ。

殺したり逃がしたりしないで、

最後までやってみれば良かったのに。そっちの方が見たい。